愛犬の死


「アア−ッ!」
 所用から戻り、一足早く玄関に入った家内の凍りついた叫びが聞こえた。
あわてて駆けつけると、目の先に我が家の愛犬“あと”が目を開いたまま
横たわっていた。
 触るとまだ少しぬくもりがあったが、すでに死んでいた。私たちが戻るのを
今か今かと待っていたに違いない。しばらくは二人して無言のまま、その場を
動けなかった。


 “あと”が我が家の一員となったのは十四年前の夏。ある夜、私は子供たち
を連れて近くの公園に、食後の運動に行った。
 ふと気がつくと、小学生の娘の後ろから、生まれたばかりの子犬がついてく
る。止まってふりかえると、突然、大の字になって横たわった。その仕種が
いかにも可愛くて、「なんだこいつは」と言いながら笑った。そして再び私たち
が走りはじめると、子犬は後ろからついてきて、ふりかえるとまた、大の字に
なるのだった。
 何度その繰り返しをしただろう。息子と娘は「かわいい、かわいい」と狂喜
した。私もとても楽しくなって、つい家まで連れてきてしまった。だが生憎、
当時はマンション住まいで、しかも三階。ペットは飼えない。家の近くで少し
遊んだが、子供たちにはわけを話して、可哀相だったが公園に戻した。
 ところで翌朝。あろうことか玄関前にその子犬がチョコンと座っているでは
ないか!
 よくぞマンションまでたどり着き、三階まで登ってきたものだ、とびっくり
した。娘は絶対に飼って欲しいとせがむ。私もさすがに手放せなくなった。
開業したばかりの医院の一角に犬小屋を造って飼うことにした。
 名前は「あとについてきたから」“あと”にしようと提案。家族全員の了承の
もとに決まった。内心私は、私の名前“あきら”と家内の名前“としこ”の
頭文字を繋げていた。
 毎日、朝と夕方、娘は嬉しそうに“あと”を連れて散歩した。もちろん私たち
家族も交代で手伝い、診察を終えた私が犬小屋に行くと、喜んで絡みついたり
あちこちを嘗めた。だが、家族と離れての夜、“あと”は一人、いえ一匹寂しかっ
たのではないか。思えば可哀相な数年間だった。
 その後医院のすぐ近くに自宅を建てた際、大工は気をきかせて立派な犬小屋を
造ってくれた。放し飼いにはできなかったが、庭を自由に遊び回り、芝生の上で
寝そべったりできるようになった。
 “あと”は賢い犬だった。無駄吠えもなく、私たちの意図をいち早く察した。
やんちゃ盛りには時々逃げ出して、その都度翻弄されたが、いつの間にかちゃん
と家に戻っていて、私たちを見返した。
 いつしか娘の興味は“あと”から離れ、主に家内が散歩するようになった。
その時の狂喜は凄まじく、散歩が終わって食事を与えると、喜んで背丈の三倍も
ジャンプする。その元気さは、亡くなる前日まで、変わることなく続いた。
 ただ、予防接種の時だけは気弱だった。接種場所に向かう途中でいち早く察し、
逃げまどい、糞を漏らした。そのためか、車に乗ることは好まなかった。




 平成十四年十一月五日、いつものように家内が連れて散歩に出たら、突然
倒れた。家内に抱かれて家に帰ってきたのだが、翌日には元気になって、
散歩もし、少量だが食事もした。虫の知らせとでも言うのだろうか、私は
その数日前、“あと”の写真を撮り、死ぬ前日には久しぶりに遊んで、手渡しで
食事を与えた。
 某寺で“あと”の骨を拾った。今、自宅で眠っている。写真はよく撮れている。
いずれ庭に埋めようと思う。
 「私たち、一生懸命面倒みたよね」
 家内は時折、そう呟いては涙する。愛犬の死はかくも悲しいものなのか。
“あと”は十四歳、十分に老犬であり、天寿を全うしたと言っていいだろう。
誰にも迷惑かけずに、美しく天上したのだから。

            (群馬県高崎市)




(医科芸術、1月号 2003年)