最終講義




 「はかなきものよ、人間とは何ぞ、また何ならぬぞ? 人間とは夢の影・・・・・・」
 平成十五年二月四日(火)、東京外国語大学内、研究講義棟の一室で、私の尊敬してやまない
恩師の一人、沓掛良彦先生の最終講義が始まった。
 演題は「陶淵明における死と詩」。資料に「枯骨閑人辞世之狂歌」と「辞世之狂句」。

 枯れ果てて身は塵土に還りなば
   骨壺の底の辺りから灰さようなら

 骨壺やはかなき夢を運の尽き

“枯骨閑人”とは先生、お気に入りの雅号である。歌も句も先生らしいユ−モアに満ちている。
 満席だった。
 含蓄に富んだ楽しい講義は、私を含め、聴衆の心をとらえて離さなかった。一時間半は瞬に
間に過ぎた。

 いつか来るものだと思っているうちに来てしまうものがある。“最終講義”はその代表的な
ものだ。沓掛先生はつい最近まで学部長の要職にあり、多忙であると聞いていたので、突然舞い
込んだ「最終講義の案内」状にはいささか驚いた。

 思い返せば、先生との出会いは、私が医進過程二年(大学二年)のラテン語の講義から始まっ
た。それはかなり風変わりなものとして、私の記憶に鮮やかに残っている。
 講義時間になっても、学生たちは誰も席に着かず、雑談していた。そこに先生が入って来られ
たのだが、誰も、全く、注目しない。“誰だろう、何しに来たのだろう・・・・・”
 風貌からすると学生のようであったが、やや落ち着かない様子のその人に、私は少し前から気
づいていた。しばらくして壇上に進んだその人は申し訳なさそうに講義を始めた。つまり、その
人が沓掛先生ご本人であった。かれこれ三十五年ほど前の話である。
 風貌は若いが、先生ほどの語学の天才を私は知らない。ラテン語、ギリシャ語、ロシア語など
多くの言語を自由に駆使していた。天才の領域に近いと感じている私は、手放しで尊敬し、友人
数人と図ってフランス語の特別学習をお願いした。
 快く引き受けてくださった先生の特別講義は数回で終わったが、講義後の酒の付き合いは、
その後長く続いた。何度か私の下宿にも泊まっていただき、夜更けまで「ギリシャ叙情詩」など、
多岐にわたる興味深い話を聴かせていただいた。
 当時、先生は東京・武蔵境のアパ−トに住んでおられた。学生たちが入れかわり立ちかわり出
入りしており、私も年に数回、泊めてもらった。国木田独歩の「武蔵野」に描かれた雰囲気その
ままの武蔵境で、真冬の銭湯帰りの寒さは今でも忘れられない。

 先生の部屋には天井まで届く本棚が四方にあり、ラテン語やギリシャ語の原書が整然とびっしり
並べられていた。それらを大切にされている先生のお気持ちを感じると同時に、日本語の書物が
ない書棚を異様に思った。
 一方、部屋には酒が必ず用意されていて、大いに飲み、かつ話した。学生運動が盛んな時代、
その殺伐とした渦から離れた場所で、まことに潤な時間を過ごせたことを、今でもしみじみ、幸せ
だった、と思う。

 東京大学大学院に在籍していた先生は、その後、東北大学から東京外国語大学へと栄転された。
その間おめにかかる機会は少なかったが、手紙などでずっとお付き合いさせてい>ただき、時に、
立派なご著書を何冊かお贈り くださった。まさに私の文学の恩師として、
先生の存在は非常に身近だった。

 診療を臨時の先生に頼んで出席させていただいた私は、講義の後のパ−ティ−にも参加した。
知る人は一人もいなかった。先生の幾分緊張された姿を遠くから拝見し、黙って帰ろうと思った。
「よく来てくれました」
 背を向けかけた私が目にとまったのか、先生は私の側まで来てくださり、温かく声をかけてく
ださった。
「先生、これからも頑張ってください」
 思いがけないなりゆきに、私はそんな月並みな言葉しか返せなかった。
 三十五年間。先生と付かず離れず、ご交情いただいたことは、私にとってとても幸せなことだっ
た。最近の先生は、西洋文化から東洋文化に興味を移し、特に中国詩を熱心に研究なさっていると
聞く。これからも“酒”や“友”を道連れに、幅広い分野でご活躍されることを祈りたい。

            (群馬県高崎市)


(医科芸術、6月号、2003年)