忠長卿追福茶会

  おだやかな日和に恵まれた昨年十二月三日の日曜日、高崎市「大信寺」において

徳川忠長卿の供養が厳かに執り行われた。午前九時半より始まった住職の朗々たる

読経のなか、高崎市長をはじめ百数十名の参加者が焼香。忠長卿の安霊をしめやかに祈った。

  その後、主催者である茶道宗家・安藤綾信師自ら点てたお茶を、長女の園枝さんが

大信寺所蔵の忠長卿御画像の御前に献じた。宗家のよどみなく華麗な、見事なお点前も

さることながら、園枝さんの美しい姿に、私は心あらわれ、感動すら覚えた。

 私ども夫婦は昨年より、江戸の昔から安藤家に伝わる茶道「安藤家御家流」を、宗家

じきじきにご教授願っている。その縁でこの日の供養に参加させていただき、忠長卿の

お墓にも参らせていただいた。

  昨年のNHK大河ドラマ「徳川葵三代」にも登場していたが、忠長卿は徳川家康の孫、

三代将軍家光の弟にあたる。幼少のころから才能に恵まれ、将軍を継承する可能性も

あったのだが、駿府藩主となってから常軌を逸した振る舞いがあり、家光の反感をかった

と伝えられている。

  その忠長卿の墓がなぜこの寺にあるのか。歴史書を繙けばその経緯は明らかにも

なるが、しばしばそれらは隠蔽・捏造され、真実は闇に葬られる。ただ今、私が事実として

認識できるのは、高崎城内で、忠長卿が自刃されたことだけである。忠長卿の墓を前にして

私は、歴史に埋もれてしまった様々な葛藤を思い、しばし立ち尽くしてしまった。

  宗家は、高崎藩主であった安藤重信から数えて十六代目の当主にあたる。家康の信頼を

得た重臣の一人であり、常に後陣に配されていた安藤重信と忠長卿の深いかかわりを

考えて、この供養を催されるようになって十二年になるという。何とあたたかな、たおやかな

心遣いだろう。

  法要後、百数十人の参加者の一人ひとりにお点前のお茶が振る舞われる茶会となった。

この日使われたのは、安藤家に四百年前から伝わる茶碗の数々。なかには美術館に

収められ、展示されるような極めて貴重な茶碗もある。

  まだ弟子として日の浅い私は、裏方を担当させていただき、次々と下げられてくる茶碗を

洗う作業を手伝った。貴重なものだ、傷つけないよう丁寧に扱わなくてはと思えば思うほど

緊張し、手がふるえた。

  一般に茶道は、女性の高尚な趣味のように思われているが、昔は男の世界の真剣な

付き合いの場であったという。狭い茶室に入る時には、腰の刀を外に置き、丸腰で膝を突き

合わせるようにして多くのことを語り合った。「安藤家御家流」もそうした厳しい、哲学的な

雰囲気のなかで伝えられてきたものに違いない。

  茶会は午後三時半すぎになってようやく、最後の一人が茶を飲み干し、終いとなった。

片付けもすっかり終わった後、私は一人、もう一度忠長卿の墓に参った。墓前はひっそりと

していた。

  三百六十七年前の十二月六日が忠長卿の命日である。生まれ故郷でも、長く実権を

握っていた土地でもなく、この高崎の冬の空を、忠長卿はどんな思いで眺めたのであろう

か。世を隔て、わがために催された法要と茶会をどう感じているだろうか。その複雑で

あろう思いは様々に想像されるが、私には忠長卿が喜んでおられるように思えた。

 

2001年3月号より