ベローナ−その2

        高崎市医師会 服部 瑛

ミラノ

  イタリア北部の第二の都市ミラノに到着した日、今一番ホットなレストランで食事をした。ミラノ在住30年に なるというM女史の計らいである。そこは、かの有名ブランドのブルガリが造った新しいホテル内のレストラン。 夕方そこには沢山の若者たちがたむろしていた。M女史がイタリア料理の食べ方と食べ物の種類を詳しく教えてく れたが、時差ボケのせいか気もそぞろ。私のメイン料理はSea Bass。鱸と鯛の中間の魚らしい。あっさりして美味 しかった。イスタンブールでも食して美味しかったことを思い出して注文したのだが。帰国してテレビを見ていた ら、このレストランがミラノでは一番有名な場所だとの説明があり、日本人女性観光客が多く訪れているらしい。

  翌日午前、ミラノ市内観光。もちろん有名なドウオ−モへ。昼食はペックで食べた。K先生推薦の店。ペックの 食料品は世界的に有名なことをはじめて知った。果物も置いてあったが、この時期のイタリアの果物は美味しい。 桃やイチジクが絶妙の味だった。

  ミラノはおしゃれの街だと聞いている。そういえばイタリアの男性はおおむねセンスがよい。女性はどの国でも おしゃれだが、イタリアの男性は別格だと思う。きれいにスーツを着こなしている。私がそれらを着てみると、お 腹でつっかえ、背広丈が長すぎ、そしてズボンも余ってしまう。特に最近目を覆うばかりの現実が顕著になって、 唖然とする。今年から某ジムに通ってなんとか5Kg痩せたが、ベルサーチやアルマーニの世界からはほど遠い。

ベローナとドウエ・トッリ・ホテル・バリオーニ

 ベローナのホテルで6泊した。古い教会(サンタナスタシア教会)が隣接している、13世紀の館を利用した5 つ星ホテル。部屋は古く狭いが、天井は高く、家具やベッドも古く格調の高さが感じられる。まさに宮殿に泊まる イメージ。バスルームや空調は現代的で、その調和が見事である。イタリアでは、他の多くのヨーヨッパの国々で も同じだが、古い建物を大切に保存、そして修復しながら使用している。地震がないことや、素材が違うこともあ ろうが、日本ではいとも簡単に古い建物を壊してしまう姿勢とは大いに異なる。かつての江戸は大都会だったが、 美しい街並みだったと記載されている。燃えやすい材料を使用していたことはあまり理由にならないように思われ る。いつのまにか日本的な住居は特別な地区だけになってしまった。現代の住居は、せせこましさは仕方がないに しても、なぜか落ち着かない。イタリアでは戦争で建物が廃墟になっても、また元に戻した。このあたりのスタン スの違いが際だっていて、そのためか日本の現状を寂しく思う。ベローナに住んでいる著名な画家のお宅にお邪魔 したが、泊まっているホテルよりも天井が高く、部屋も広い。心地よいパティオ(中庭)もある。この建物も数百 年使用しているというが、古さは全く感じられない。イタリア人は、生活をエンジョイする確固とした場とスタイ ルを持っているようだ。

ガルダ湖

  イタリア最大の湖である。3日間のオペラ鑑賞を終えて訪れた。チャターしたバスに乗って、とある小さな港か ら遊覧船に乗って、湖の南側から突き出た岬に位置するシルミオーネで下船した。この地は、ガルダ湖では一番の 観光どころ。P教授が厚意で付き添ってくれて、絶好の昼食場所を案内してくれた。細い路地が細かく巡る古い街 並みを歩いておよそ10分。城の門に到着(おそらくスカリジェーロ城と思われる)。外から電話すると、閉じら れた頑丈な門が開いた。中は大庭園、ゆっくり歩いていくと海原とも思える湖が一望できた。まさに絶景である。 その青い湖を見ながら皆で昼食。イタリアビールがことのほか美味しい。日本人が滅多に訪れることのない場所で はないだろうか。この日から、イタリアでは夏期休暇が始まって、シルミオーネは大混雑。日本で聞いていた以上 に外は暑い。ただし群馬の地よりは幾分温度が低く、そして湿気も少ない。

 イタリアの人たちは日光で肌を黒くすることは裕福な一つの象徴らしい。そのためか女性の背中はシミだらけ。 これはイタリアに限ったことではなく、白人女性におおむね当てはまる。かつて安心していた日本人は、最近にわ かに紫外線対策などと言うようになってきた。皮膚科的には正しいが、皮肉なことにはすでに時遅しといえなくもな い。

ベネチア(ベニス)

  旅行通のK先生は、何度かイタリアに来ていながら、ベネチアは訪れたことがないという。それで、あえて一日 潰して電車でベネチアへ行くことになった。2時間の予定が、30分遅れて到着。いかにもイタリアらしい。駅か らすぐに海。遊覧船に乗って、サンマルコ広場へ。

 夥しい人人人・・・・・。壮大な寺院、旧行政館そして大鐘楼など過去の栄華がみられる。空いているテーブル に陣取ったらちょうど生音楽演奏が始まった。私たちのためにか「上を向いて歩こう」を演奏してくれたが、レシ ートをみたら演奏代がしっかり計上されていた。

  細い道を歩いて、ベネチアの街を堪能した。観光する立場からみると海と建物の醸し出す景観はすばらしいが、 生活する人たちにとっては不便極まりないように思われる。見た眼にきれいな橋は、太鼓橋のようになっているの で重い荷物を運ぶ時大変なのだ。ちょっと対岸に行くにも船がないと行けない。その昔外敵を防ぐ知恵だったと聞いた。いつかドイツ在住の友人が1週間ほどベネチアで過ごしなさいと推薦してくれた が、行動するのが面倒で私向きではない。

 フェニーチェ劇場前に出て、5つ星のグリッティ・パレスホテルで休憩。同行したH夫人が、亡くなられたご主 人と数日泊まったホテルだと説明してくださった。明るくその時のことを話されたが、内心寂しさに万感胸が迫る 思いだっただろうと思う。そこから小船のタクシーに乗ってサンタ・ルチア駅へ、夕方ふたたびベローナに戻った。

ドミンゴ

   最後の待ちに待ったドミンゴの上演。このベローナ野外オペラでの出場回数はきわめて多く、沢山の人たちに 愛されている。この夜は観客も多く、ほぼ満席。夜9時開演。颯爽とドミンゴが出場してきたが、マイクの音が気 になった。いままでのオペラはマイクなど無く、生の音で感動してきただけに、内心嫌な感じだった。絶叫しない 曲はなんとか聴けたが、大声を出した時のスピーカーの音は割れて聞こえて私には最悪の音。それでも多くの人た ちは大声援。何故かドミンゴの一曲の歌ごとに、ビデオを通して、遺跡で踊り、歌う画面が放映された。しかし、 3回目には観客の多くがその企画に強くブーイング。結局それからはドミンゴがずっと歌ったらしい。奇を衒った 試みだったが、観客は正直に意志を表明し、そしてドミンゴもそれを訂正して受け入れた。このあたりの感覚はい かにもイタリア人らしい。

  一部を終える頃、気持ち悪くなっていた家内がついに私に助けを求めた。急いで歩いてホテルに戻った。ベッド に横になった家内の脈が早く、時に不整脈もあった。幸い熱は無かったが、相当に苦しいことがわかる。1時間ほ どしてなんとか落ち着いた。彼女曰く、「いい音をいつも聞いていることは時には良くないこともあるのね」との こと。私の趣味の一つはオーディオ。私ばかりでなく、家内もその音をいつも聞かされている。生の声は心地よい が、程度の悪いスピーカーの音には辟易する。いままでの強行軍で疲れ果てていた家内は、そのスピーカーの音で 胸が締め付けられたそうな。私も全く同じ感想。フルオーケストラ、合唱団に囲まれて、広い野外アレーナでのマ イク無しの歌唱は、70歳を過ぎたドミンゴには無理なのだろう、と思った。

  残念なことに、多くの世話になった人たちに挨拶できず、翌朝ベローナからミラノ空港へ。しかし、3日間の野 外オペラ鑑賞、いくつかの観光、おいしい料理とワイン、特にH氏やH女史らの国際的なご活躍を目の当たりにし て、やはり楽しく、嬉しい旅であった。

               (おわり)