ベルリンへ その1

高崎市医師会 服部 瑛

  一昨年はパリ、昨年はイスタンブールと、二年続けて正月をヨーロッパで迎えた。その感動が予想以上だったので、次はドイツだ、と秋には早々に旅券を予約したものの、その後様々な雑務が重なって、旅行はほとんど諦めていた。ところが、出発予定の数日前になって行けそうだとわかり、平成14年12月26日(木)、家内と娘と共に、思い切って成田を飛び立った。

 12月28日(土)朝10時半、私たち三人はフランクフルト駅にいた。前夜、駅内でベルリンまでのICE(Inter City Express)のチケットを購入していた。普通席は満席で特別席(日本でいうグリーン)しか取れなかった。一人あたり20ユーロ。高価だ。それでも前日購入は一割安い。

 午前11時13分、定刻通りに出発。車内は大きく3分割されている。入ってすぐは、テーブルを囲んで4脚の椅子があり、両隅に小さな服掛けと荷物置場がある。続いての3分の1には、進行方向を向いた椅子が並び、残りの3分の1の部分が3つの個室となっている。個室内は、3脚と2脚の椅子が向かいあってあり、2脚の椅子の間にテーブルが設えられている。

 単純な椅子の羅列である日本の新幹線とはまるで違う。多くの乗客をできるだけ早く目的地に運ぶのとは違って、このICEは様々な使い方ができる。チェスなどのゲームを楽しみたければテーブルのある席、テレビ鑑賞やパソコンゲームをしたければ椅子席がいい。家族や友人同士でまとまりたいのなら個室。多少大声を出しても他に迷惑にならないように設計されている。また、各部分には音楽を楽しめるヘッドホーンなど様々な機能がついていて、何と、自転車置場まである。ずいぶん贅沢な列車だ。

  聞けば、飛行機のほうが安くて早いのだそうだ。鉄道に快適な空間が確保されていなかったら競争にならない。これはあくまで私の

推測だが・・・・・。ちなみに、私たちの取れたチケットは個室であった。

 窓外にはドイツ特有の美しい田園風景。なだらかな丘陵が続き、大きく区画された畑には冬の最中だというのに緑が広がっている。所々に雑木林が見られ、川は蛇行しつつゆっくり流れている。

 ドイツでは川の護岸工事を撤廃している。生きとし生けるもののいのちを大切にした自然環境を守るための決断だが、かつて施されていた護岸はすべて元に戻された。ドイツ人らしい発想だ。なぜ日本でもそれができないのだろう。私の自宅前の小さな川は、コンクリートで整然と、しっかりと、固められている。風情などあろうはずもない。

  2時ころ食堂車に行く。比較的瀟洒なレストランといった雰囲気。メニューはドイツ語のみ。ウェイターもドイツ語しか話せない。仕方なく隣席の食事を指さしながら説明してみたが通じない。ほとほと困っていると、同席のドイツ人が私の意を汲んで注文してくれた。基本的にドイツ人は他国人、ことに日本人には優しいと聞く。この旅では何度もその優しさにふれた。

  のどかな車窓を楽しみながらの食事は格別だ。日本の鉄道から食堂車が消えて久しい。わずかに残っていた新幹線のカフェテリアも廃止されるらしい。寂しい限りだ。

 およそ4時間ほどでベルリンの「動物公園前」駅に到着。午後4時すぎになっていた。ずいぶん小さな街に思えたが、実際は、ヨーロッパが誇る大都会だ。広さは東京の1.5倍だという。

 インターコンチネンタルホテルへ。フランクフルトの同ホテルから急遽予約したのだが4泊が簡単にとれて、しかも格安だ。正月近いこの時期、ドイツではホテル予約の穴場的時期なのかもしれない。ツイン一部屋、朝食付きで128ユーロ(およそ15000円)。十分にゴージャスな部屋だ。フランクフルトのホテルと比べ、ロビーがとても広い。

 昨年、イスタンブールで楽しい時をご一緒したF夫人がすでにホテルに到着していて出迎えてくれた。ベルリンの観光に2日間、時間を空けてくださるという。恐縮しながらも有り難く甘えさせていただくことにした。

 まず彼女の計らいで72時間フリーパス(Wellcome Card 16ユーロ(およそ1200円)で購入。これはベルリン近郊のあらゆるバス、地下鉄、路面電車、鉄道を何回でも自由に使える。何と安い! 何と便利!  ドイツの交通事情は何とシンプルで合理的なのだろう! 来日した外国人が日本の交通事情には困惑するという話を聞いたことがあるが、このフリーパスを知れば、至極もっともなことだと納得する。

 使い始めは「ドイツ連邦議会議事堂」へ。夕闇の中の議事堂を眺める。冬のこの時期ベルリンはパリより日没が早く、午後5時には暗くなってしまう。議事堂にはいつでも無料で入れるのだが、ヨーロッパの多くの美術館同様一定の人数しか入れないために、行列ができていた。

 かつて首都はボンにあった。第2次大戦時のベルリンの破壊があまりにも凄まじかったため、当時のアデナウアー首相が自分の故郷のボンに暫定的に首都をおいたのだそうだ。遷都にあたってはかなりの議論があり、僅か1、2票差でベルリン遷都が決まったとか。私にとってアデナウアー首相の名前は懐かしく、なぜボンがドイツの首都だったか、はじめて理解できた。

 歩いて「ブランデンブルク門」へ。統合以前は、ここが東西ドイツの唯一の出入口であった。1989年、かの非情な“ベルリンの壁”は無くなったが、入口の向かいにはかつての東ドイツから逃れようとして死亡した人々が祀られている。厳しい現実が尚、残っているが、通りは新しく生まれ変わっていた。

 「ウンター・デン・リンデン(Unter den Linden 菩提樹の下」と名付けられた通りは中央の樹々がライトアップされ、美しい。そぞろ歩きする大勢の人に混じって、私たちもドイツの風に吹かれてあるいた。

 6時すぎ、F夫人の提案で夕食は1641年から営業しているベルリン最古のレストラン「Zur Lezten Instanz」へ。すでに満席。予約していなかったが、お願いすると好意的に席を空けてくれた。さてと、メニューを見ると、「証人供述(Zeugenaussage)」「証拠品(Beweismittel)   「誤審(Justizirrtum)」「侮辱に対する公訴(Beleidinunsklage)」など奇妙な記述。聞けばその昔、レストラン前に裁判所があったなごりだという。私の注文は「侮辱云々」。豚肉の大腿部の骨付き肉、それも塊が運ばれてきた。ドイツではいつも感じることだが、その量は食べきれないほど多い。だが、生ビールは独特な甘みがあり、とても美味しい。

 料理を堪能し、タクシーでホテルに戻る。さすがに疲れた。スタミナ充分の女性たちはまだ、男性抜きの話があるという。10時、私は一人、つまはじきされて就寝した。

 (つづく)