ベルリンへーその3−

高崎市医師会  服部 瑛

  昨夜はまたとない良い時間を過ごした。まず、ホテルから紹介された「動物公園」駅前パレスホテルの洋食が美味しかった。すべてに納得する思いであった。その後泊まっているホテルに戻り、バーで娘らと語り合った。明日は2002年最後の日、の感慨にふけりながら… 。

 12月31日(火)7時起床。快晴。実にドイツに来て初めて、輝く朝の陽を見た。

 9時、家内とホテルを出る。娘は一人で買い物をするという。娘の本心は家内と二人で行動したかったらしい。だが家内は、娘をなだめて私と共にでかけるほうを選んだ。昨日一日、私が一人で行動したことを気にかけているのだろうか。異国では、妻と子、そして夫の立場はしばしば逆転する。私は哀れな一人の男性になってしまうようだ。女性は外国に出ると、日本にいる時より概ね元気だ。

 昨日私が一人で乗ったバスに二人で乗り込んだ。二階建ての2台連結。まだ人気のないバスの二階席の最前列に座り、とにかく最終地まで行ってみようということになった。昨日見た景色を通り抜けると、次第にアパート群が多くなり、町並みが閑散としてきた。

 およそ一時間で終点。幾分うらびれたアパート群の中にある広場。寒さが見に堪える風景だった。すぐに動き出すという戻りのバスに、地元の人に確認して再び乗り込んだ。

 しばらく行くと、昨日訪れた「ベルリン大聖堂」が見えてきた。急いで降りる。昨日は外観だけの見学だったが、今日は時間も十分あるので中に入ることにした。この種の建物は、入ると必ず、圧倒させられる空間が広がっている。まずはフリードリヒ2世大王の棺桶を見た。2世大王は当初ここに葬られたが、今は遺言通り「サンスーシー宮殿」で、犬たちの墓に囲まれて眠っているという。犬をこよなく愛し、女性や家来を全く信用しなかった2世大王。いびつな世界に生きていたのか、性格だったのか… 。

 家内と私はドーム内の椅子に座った。と、どうしたわけか、二人ともしばしの時間寝入ってしまった。バスからの景観をしっかり見て疲れたのかもしれない。

 その後、向かいにある「旧博物館」に入り彫刻と絵画を堪能した。この建物にも戦争による破壊の跡がある。「ベルリン大聖堂」には、戦争で大きく破壊された様々な建物の、痛々しいまでの写真が飾られていた。

 再びバスに乗り、今度は「フンボルト大学前」でおりた。正面にフンボルトの銅像。その前に古書が並べられていて、川端康成の著書と思われる「Kyoto」という本を見つけた。中を見ると“Chieko” という名前があったので、昔愛読した「古都」のドイツ語訳なのだと思う。周りには誰もいなく、自由に持ち帰って良いものと勝手に判断して貰ってきた。後で表紙裏に「7.5ユーロ」と書いてある文字を発見し、売り物だったのかと思ったが後の祭り。盗みをしてしまったのだろうか…。 フンボルト大学から「ウンター・デン・リンデン」通りがブランデンブルク門までつづいている。途中左折し、ショッピングセンターとして有名な、そして独特の景観の「ギャラリー・ラファイエット」に入る。しばらく歩いて、レストランに入る。昼時だが、私はもちろんビール。家内はケーキとカフェオーレを注文した。ドイツの衣服店は、ブランド品を除いて、基本的には地味だと思う。ローマやパリの派手さがない。家内がまったく食指を動かさないのだから、それは当たっているのだと確信する。

 隣席の足元で大きな犬がおとなしく座っていた。ドイツの都会では、概ね庭のある家は持てない。したがって犬もアパート内に住むことになる。同居するためには一定の躾けが必要だ。そのため調教はかなり徹底しているらしい。犬を購入するためにはおよそ一年がかりだと聞いた。確かに、私がこれまで見た犬はすべておとなしく、利口だった。日本では簡単に飼える一方、簡単に捨てる。それで良いのだろうか。とまれ、衣服にしろ犬にしろ、ドイツ人は大変質素である。

 店を出て、「ウンター・デン・リンデン」通りを歩く。人、人、人。新年を迎えるにあたって、たくさんの露天も出ていた。正月用品を調達する場所として、ヨーロッパでも有名なところらしい。ブランデンブルク門を出て、昨日入館した「議事堂」に向かおうとしたが、生憎通行止め。後ろを振り向くと、何と、昨日訪れたソニーセンターがそう遠くないところに見えるではないか。

 ソニーセンターはポツダム広場に位置している。いくつかのソニービルが取り囲んで広場があり、雨をしのぐ透明なテント状の屋根が、丁度富士山のように造形されている。驚くほど大勢の人々。それだけ有名な場所なのだ。そろそろ午後2時。広場に面するレストランで食事する。窓外に、年末のドイツを、あわただしく行き交う人々が眺められる。それは日本とあまりかわりない光景であった。

 なかなかバスが来なかったため、ホテルに戻ったのは5時頃になってしまった。オペレッタは6時開演。急いでタクシーに乗った。

「国立オペラ劇場」には、すでに沢山の人が開演を待っていた。コートを預け、シャンパンを飲む。パリのオペラ座とはその豪華さを競いようもないが、それなりに威厳のある劇場であった。

 定刻どおり開演。レハールの「メリー・ウィドー」。オペレッタとしては有名な出し物だ。主役の男優の声量はすごかったが、女優はいまいち。ただし素晴らしい美人だった。ヨーロッパの弦楽器の、音の美しさは言うまでもない。

 途中の休憩時間は、赤ワインなど飲んで過ごす。私用を足していたら、一人のドイツ男性が家内と娘に話しかけていた。このタイミングがうまい! 私が側に戻ると目もくれずスッと離れていった。

 そして第二幕。いろいろあってコミカルにハッピーエンドが終わった。突然、天井からニセの紙幣と風船が落ちてきた。娘は風船の中から、来年4月のチケット2枚をゲット。嬉しそうに握りしめてした。

 9時前終了。ブランデンブルク門周辺には人々がぎっしり。周りのレストランはすべて予約済み。立っていると足元から寒さが這い上がってくる。爆竹が至るところで鳴っている。しばらく歩くことになるが、ホテルに帰ることを私たちは選択した。

 ホテルのバーで新年を待つことにする。バンドが入り、客席は各国の人々で埋まっていた。長いような、短いような… 。

 午前0時。演奏や踊りがピタッと突然終わり、外では花火が打ち上げられた。

 2003年の始まり。Happy New Year!

 叫びながら誰彼となく握手し、興奮がおさまりきらぬ中でバーを出た。ベルリンの夜も今日が最後。すっかり疲れ果てて床についた。 2003年1月1日(水)。朝食の席で、昨夜のブランデンブルク門で正月を迎えた日本人の話し声が聞こえてきた。

「大変な騒ぎで、帰ったのは2時過ぎ… 」

 私たちの判断は正しかった! と思った。しかし、フランクフルトの戻り、F夫人に話したら、「最も有名な正月を迎えるセレモニーに参加しないとは。駄目な人たちね」とのお言葉。返す言葉はなかった。

 一昨年のパリ、昨年はイスタンブール、そして今年はベルリン。正月の思い出はどれも素晴らしく、滅多に経験できないことばかりだった。

 現在、イラク戦争や北朝鮮の核問題など、物騒なことが囁かれているが、なによりも私は平和を愛する。ベルリンにおいて、「戦争」「東ドイツ」の無惨な残滓を目の当たりにして、平和の有り難さをつくづく思い知った。

                              (おわり)