イスタンブールへの旅 
     
 平成13年夏、ドイツ在住の友人から「年末・年始、イスタンブールに一緒に行かないか」との
メールが入った。幾分その気になっていたところに、ニューヨーク9月11日、
あの大惨事。そしてアフガニスタンでの戦争状態。
 トルコの大都市イスタンブールは、その地に近く、しかもイスラムの国だ。何が起こるか
わからない、止めたほうがよさそうだ、と思った。周囲の大方の意見も同じだった。
 そんな折も折り、某新聞の声の欄で「親日的なトルコに日本人が誰も来なくなった。非常
に残念である」といった記事を読んだ。
 気持ちが動いた。日本では中止となっているトルコツアーが、ドイツでは全くその気配さえ
ないようだ。友人にも会いたい。トルコ、イスタンブール、その名さえ物語的な未知の世界への
興味はとめどなく湧いてくる。
 思い立ったが吉日。何かあったらそれでもいいじゃないかと、年の瀬せまる12月27日(木)、
ドイツへ旅立った。

 12月28日(金)。朝からフランクフルト市内の散策を堪能し、夕方、フランクフルト空港に
向かった。フライト予定は19時40分。ALTAS航空イスタンブール行き直行便。ヨーロッパの
ローカル便はしばしば搭乗ゲートや出発便が変わる。十分注意しなければと思ってはいたが、
案の定、この便もゲートがC5からC4に変わり、出発時間も遅れた。事情を熟知している友人の
S夫妻がいなければ今頃どうなっていただろう。
 機内は帰省するトルコ人が大半を占め、満席。日本人は我々夫婦とS夫人。S夫人の夫君は
優しい素敵なドイツ人だ。男性乗務員が心配そうに、ドイツ語が話せるかと私に英語で尋ねた。
「English OK」と応えたら安心したようだった。それほど日本人が珍しいのか。ドイツで
企画されたこのツアーに参加しているのが意外だったのか。
 離陸後、あちこちで話し声がする。かなり昔の日本にもあった、満席の列車内での情景を
思い出した。蒸気機関車であったその頃、楽しそうな話し声や笑い声が車内に響いていたものだ。
 隣席の老人が家内と私にビスケットを差し出した。と自分でも食べながら、家内にトルコ語で
なにやかやと話しかける。家内は片言の英語で応対したが、老人は英語が分からないようだ。
にもかかわらず、気持ちは十分に通じ合っている。とても親切な老人だった。
 しばらくして機内食が出た。ケバフ様のものが運ばれてきたので、飲み物にビールを注文。
意外にも2マルク請求された。
 飛行時間およそ2時間半でイスタンブールに到着(時差があるので、正確には3時間半)。
着陸が告げられると機内で、大きな拍手が起こった。何事かとびっくりしたが、どうも久しぶりの
故郷に降り立つ喜びを表現したものらしい。はためにも微笑ましく、あたたかい気持ちになった。
 外は寒かった。数日前、珍しく大雪が降ったのだという(この後、田中真紀子外相がトルコを
訪問した折りにも大雪が降り、大変だったことを帰国後知った)。ツアーのバスに乗って、夜中の
0時過ぎ、メリット・アンティークホテルに到着。1921年開業の五つ星ホテルだというが、
内装からして、私にはとてもそう思えなかった。
 12月29日(土)、7時起床。外はまだ、真っ暗だが天気はよいようだ。8時朝食。かなり広い
エリアでたくさんの人たちが食事していた。ここでもドイツ人は多いが、日本人は我々のみ。
恐らく、テロの影響で日本からのツアーが中止になったためだろう。ホテルには多少
痛手かもしれぬが、私には、日本人に会わないことが新鮮だった。
 9時、バスに乗り込み、まずは「スワイマニ・ジャミイ」に向かった。同行者は、我々4人の他に
ドイツ人夫婦が2組、ドイツで働いているというトルコ人女性5名、計13名。説明はドイツ語を
くり話してくれるので少しは理解できた。が、説明の間私は、日本語ガイドブックをしっかり
読んでいたのであった。
スワイマニ・ジャミイはオスマン帝国の偉大なスルタン、スレイマンT世のモスクである。4基の
ミナレットが立っており、中庭で説明を聞いてから、履物を脱いでドームに入る。非常に広い空間。
高さは47mあるという。偶像がないせいか実にシンプルだ。壁やステンドグラスの模様が
際立って美しい。
 キリスト教矢仏教の寺院には、必ずといっていいほど内部の中心に偶像が存在する。
宗教的な場ではそれが当たり前だと思っていた。しかし、無ければ無いで、ドーム内は安定している。
S夫人は「シンプルなモスクが好きだ」という。日本人の感性がそう言わしめたのだろうか。
 モスクの裏手にはスレイマンT世の霊廟があった。いくつかの柩が安置されていたが、
その中には一体どういう形で遺体(ミイラ?)が安置されているのだろう。
 10時半、「アヤソフィア」へ。当初はコンスタンチノーブルの総主教会として建てられたが、
その後、オスマン・トルコ時代にモスクとなり、キリスト教関係のモザイクはすべて漆喰で
塗り込められてしまった。現在は博物館となって、かつての姿を現している。漆喰が取り除かれた
モザイクはたいそう美しい。
 ドームの大きさは尋常ではない。高さ56m。スワイマニ・ジャミイよりずっと大きい。
内部は20階建てのビルの高さに匹敵するとか。ガイドは世界第3の大きさだ、と言っていたが、
日本語ガイドブックには、4番目と記載されていた。こうした若干の食い違いはその後何回もあった。
まあ、目くじらを立てることではないが・・・・・。
 およそ1400年前の建物なので、多くの個所が破損している。天井を支えるためだろうが、
金属製の巨大な枠組みが据え置かれていた。中にはエレベーターまであるとか。少しずつ
修復しながら保存しているのだという。
「人間の一生は僅かだが、建物は残る」
 説明書きの一節が心の底に届いた。人生のはかなさが理解できる歳になってしまったらしい。
こうして元気に旅ができるのもあと僅か。今を大切にしなければとつくづく思う。
 アジアでもないしヨーロッパでもない街、イスタンブール。二つの文化が接した場所だ。人口は、
公称700万人。しかし実際は1000万人から1500万人と推定されている。至るところに
人々の群れが蠢いていた。
 12時。ガイドは私たちを革製品の店へつれていった。日本の旅行社の外国ツアーと全く
同じパターンだ。観光の他に、何か買わせようという魂胆が露骨だ。次に行くグランド・バザールで
騙されないためだと説明があったが、こうしたセレモニーにはいつも辟易する。しかし結局、
S夫人と家内は革のコートを買わされれてしまった。私たちはネギを背負ったカモなのであろうか。
 午後1時頃昼食。ボスフォラス海峡をすぐ目の前にしてケバフなど食べる。トルココーヒーを
飲みながら、若いトルコ女性と歓談。5名中、3名は看護婦だという。皆素敵な若者であった。
 昼食後、グランド・バザールに向かう。が、直行するのではなく、ガイドは再度、バザール内で
騙されないようにと言って絨毯店に案内した。目の前にグランド・バザールが臨める。
 店での説明はドイツ語。しかし、用意周到というべきか、日本語が話せる男性が私たちに
まとわりついてきた。これでもか、これでもかといった具合に大小様々な絨毯が並べられ、
いかにもそれらが価値あるものなのに安い、買い得だという印象を与えようとする。家内はかつて、
絨毯では痛い経験をしているので冷静そのもの。触って、値段を聞いて、「今の日本と同じよ」と
言ってのけた。なるほど、ガイドが言うように誤魔化されない訓練をしたのだった。
 一階は宝石店。カイザー髭の優男がS夫人と家内を標的に近づいてきた。S氏と私は黙って
見ているしかない。値段を聞いていると、決して安くはない。おそらく、買う意志を多少なりとも
見せれば、それなりに安くするなど交渉が始まるのであろう。女性2人はもちろん無視。
ホッとする。
いよいよグランド・バザールに入った。夥しい人たちが歩いていたが、テロ以前だったら
もっと多くの人たちが行き来していたのではないかと、ただ呆れる思いだった。店の中に、
客の姿がいかにも少ない。歩いていると、あちこちから勧誘の声がかかってきた。
 メインストリートであるカルバクチュラル通りは宝石店が軒を連ねている。商品に
定価の表示はなく、交渉しなければならない。最初はかなり高価な価格が提示され、
あとは腕次第。しかし、S夫人も家内も、そこまでして買う気にならない。結局、2時間ほど
ブラブラ歩いただけでバザールの外へ出た。送迎バスが来るまでしばらく
待たなくてはならなかった。
 そこでS氏の提案で、バザール周囲の町を歩くことにした。街角には多くの人たちが
たむろし、行き交う人も多い。珍しいことだ。今まで旅した外国で、日本人に
全く会わないことはなかった。こんなところにも日本からのトルコツアー中止の
影響がうかがえる。
 夕方になって急に寒くなってきた。午後6時少し前にバスが到着。すっかり疲れ果てていた。
にもかかわらずガイドは、朝早く出た客を優先するといって、ボスフォラス海峡を跨ぐ
ガラタ橋を渡って対岸に行き、それぞれの客を降ろして戻って来て、最後に降ろされた。
 イスタンブールはボスフォラス海峡を境にしてアジア・サイド(旧市街)とヨーロッパ・サイド
(新市街)に分けられる。帰途についた私たちは旧市街から新市街に行き、そしてまた
旧市街に戻ったことになる。しかし夜景は素晴らしかった。旧市街、新市街の光のうず、
それにモスクやミナレットのライトアップは、異国情緒を幻想的なまでに堪能させてくれた。
もしかしたらガイドは、その美しい夜景を私たちに見せたかったのかもしれない。
(いい人だったのだ!)
 午後7時、ホテル着。相談の上、近くのレストランでシシ・ケバフなどを食べる。
地元の店なので安くて美味しい。しかしデザートは想像を絶するほど甘い。この後何度か、
この甘さに驚いた。
 12月30日(日)。6次40分起床。9時半に昨日のバスが迎えに来た。このドイツ語
ガイド観光は変わったツアーで、昨日を含めて一日半。中途半端というか、合理的なのか。
 まずは「ブルー・モスク」へ。昨夜、美しくライトアップされた外観を見ていたから、期待も
大きかった。案に違わず、17世紀に建てられた比較的新しい建物であったから、
外観ばかりでなく内部の大ドームも綺麗だった。壁面のタイル装飾は、青を基調にして
様々な模様でせまってくる。天井だけは描いているのだそうだが、その他はすべて、
タイルを焼いてから一枚一枚壁に貼り付けた造形である。みごとなものだ。
 基本的にモスクは、大きな柱を支えとして造られた巨大な空間と、明かりをとる
ステンドグラスの窓の数々、そしてタイル装飾からなっているのだが、実にシンプルだ。
S夫人も同じような感想を述べておられたが、ヨーロッパの教会とはまったく異なる
世界を醸しだしていた。
 10時半、かの有名なトプカプ宮殿へ。オスマン・トルコ帝国の歴代スルタンが生活し、
政務を行ったところである。「表敬の門」から入る。ここから先、馬に乗ったまま
通ることができたのはスルタンだけだったという。スルタンとは、それだけ強大な権力を
持っていたのだ。
 宮殿内の陶磁器博物館には、中国の青磁や白磁が数多く陳列されていた。日本の
伊万里焼もあった。厨房道具展示室では、宮殿に働く4000人分(ガイドの説明では5000人)の
食事を賄ったという厨房の一部を見ることができた。また衣装展示室には歴代スルタンの
着用した衣装が飾られていた。年代が新しくなるにつれ、この国独自の衣装から現代の衣装に
近いものに変わっていた。想像するに、スルタンの多くは大柄な体格であったようだ。
 謁見の間など、いくつかの展示室を拝観し、武具が収められた部屋に入った。日本人で、
山田虎次郎という人(日本史辞典で調べたが不明)が、1891年、スルタンに献呈した
鎧・兜が展示してあり、意外に思った。
 以外といえば、トプカプ宮殿で最も見たいと思っていた「宝物の間」と「ハレム」は、
このツアーでは見せてもらえなかった。家内は不満だったらしいが・・・・・。宮殿の
北の端から間近にボスフォラス海峡が青く見渡せた。
 12時半、ホテル前にてドイツ語ツアーは終了。イスタンブールでは、ブルー・モスクが
最も華麗な建物であった。トピカプ宮殿はオスマン・トルコ帝国の権力の強大さを彷彿させてくれた。
             
 日本人に全く会えない旅。周囲から聞こえてくるのはトルコ語とドイツ語ばかり。
それも楽しいと思っていたが、三日も経つと多少違和感が湧いてきた。午後からの
日本語ツアーがやおら楽しみになり、以前から頼んでおいたことを“正解だったなあ”と
ひそかに得心し、大いに期待した。
 12月30日(日)午後一時半、日本語が話せるというトルコ女性がホテルに現れた。
いささか失望。彼女の話す言葉は、とてもじゃないが日本語の範疇に入らない。
しかし約束を反故にはできず、まず「地下宮殿」へ。期待して入ったが、何のことはない。
ビザンチン時代の地下貯水施設であった。オスマン・トルコ時代にはすでに
使用されなくなったという。現在は、残っていた大部分の水を抜いて、内部を
歩けるようになっている。
 おびただしい数の石柱が並んでおり、その支えの部分から2つの「メデュウサの首」が
発見されて有名になった。映画「007 ロシアより愛を込めて」のロケ地としても有名だそうだ。
帰ったら早速、見てみよう。
 イスタンブールでは今でも水道水は飲めない。ホテルでもどこでも、飲料水を買って飲む。
ちなみに、ガイドの女性は日本滞在の折り、水道水は飲まずに飲み水は買っていたそうだ。
日本語の勉強のため半年ほど滞在する予定でいたが、日本の物価があまりにも高く、
2ヶ月で帰らなくてはならなかったと残念そうに話した。トルコの経済力を考えると
仕方ないことかもしれない。
 ついで、近くの「トルコ・イスラム博物館」へ。まず、トルココーヒーを皆で飲む。
青を基調とした伝統的なデミタスカップだ。濃いコーヒーのため、カップの底に汚泥のような
コーヒーカスがたくさん残る。飲み終えてカップを皿に伏せ、再び元に戻した時にカップの
内側についたコーヒーカスの模様から、占いができるとか。そういえばツアーで一緒だった
若いトルコ女性たちも同じことをやっていた。おもしろがって家内がそれをするとガイドの
女性が詳しく占ってくれた。そうとう流行っているらしい。
 この博物館には、トルコ民族の遊牧民時代から近代に至るまでの生活様式が、模型で
順次わかりやすく展示されていた。出色は絨毯で、古くからテント生活には必要不可欠な
ものであったことがよく理解できた。12世紀からの古い絨毯ばかりを数多く展示している
部屋にも入ったが、色彩の劣化はそれほどでもなく、きわめて丈夫にできていることを知った。
 さまざまなコーランが並べられている部屋もあった。聖典だけに、色彩といい、模様といい、
ずいぶん立派だ。私には、この博物館がトルコを知るうえで非常に興味深いものであった。
 さてここで、およそ200年前、フランス人やイタリア人が作った建物が残っている
イステイクラル通りに行こうとのガイドの提案。もういい、とも言えず、タクシーに乗り、
ホテル「ぺラ・パラス」で降りた。オリエント急行の乗客をもてなすために、1892年に
建てられた古いホテルである。小説『オリエント急行殺人事件』の著者、アガサ・クリスティも
ここに泊まった。内部はいかにも古い。開業当時からのクラッシクなエレべーターが、
今でも稼動している。ホテルから歩いてイステイクラル通りへ。両脇には古い建物が
並んでいる。年末のせいか人並みに途切れがない。その多くは若者たちだった。
道の真ん中に小さな電車(トラム)が走っている。かつてフランス人が造ったものだそうだ。
面白そうなのでこれに乗って戻り、やはりフランス人が作ったというケーブルカーでホテル
「べラ・パラス」近くに降りた。
 この日の夕食は魚料理と決めていた。いったんホテルに戻り、身支度を整えて外に出、
タクシーに乗り込んだ。ガイドの紹介してくれたレストランを指示したが、走り出してふと見ると
メーターが下ろされていない。こちらのハッとした緊張感を察知したのか5千万トルコリラ
よこせと言う。駄目だと頑張ったが、結局ぼられてしまった。トルコでタクシーに乗るときは、
十分注意せねばならない。たとえメーターを下ろしても、あちこち回ってぼられることも
多いとも聞いた。
 さらに、札の金額が極端に長いので、換算が非常にやっかいだ。1千万トルコリラが
日本円にして1千円くらい。なぜそういう換算になるか、今でもよくわからない。
日によって金の価値が大きく変動するため、むしろドルやマルクが好まれる。
残念ながら日本円は、特殊な場合以外、敬遠されている。
 この日はS氏の誕生日。大いに祝う。
 レストランの食事は前菜も魚もおいしかった。あっさりしたスズキの塩焼きは
お薦めである。デザートはやはり、きわめて甘い。「この甘さは何なの!」と
言いながら女性たちは食べていた。
 12月31日(月)曇りのち雨。トプカプ宮殿を再度訪れることにした。最も見る価値があると
思われる「宝物館」と「ハレム」を見ていないからだ。イスタンブール大学の脇を通って
大通りを歩いていくと、靴磨き、傘売りの子供たち、粗末な絵葉書を売る者たちが
次々と寄ってきた。中には体重計で体重を測ることまでも商売になっている。
トルコは想像以上に貧しい国だ。
 テロの「危険度2」とした日本の外務省の措置は、この国の貧困にさらに打撃を加えた。
日本からのツアーがなくなったことについて、トルコの人たちから嘆きの声を聞いた。
もう少しきちんと実情を把握してから対処すべき
だったのではないだろうか。親日的なトルコ人に対して、日本は大変失礼なことをしたと
思えてならない。
 途中から雨になったが、歩いて20分ほどで宮殿に着いた。思ったよりも近い。
家内がぜひとも見たいと主張した「宝物館」へ。昨日なぜ寄らなかったか。ここに入るためには
新たに入場料が必要だったのだ。
 宝物は想像を絶するほどすごいものばかりだった。映画「トプカプ」で有名になった短刀、
世界で3番目に大きい86カラットのダイヤ、そして数知れぬ宝石が散りばめられた
王冠、鎧、玉座・・・・・。いずれも圧倒させられるものばかりだ。これが、オスマン・トルコの
強大な歴史の片鱗であろう。しかしそれらは、驚くようなものであることに違いないが、
私の好みからすると、美しいものだとは到底思えなかった。家内は見るべきものを
観賞して満足したようだったが・・・・。
 「ハレム」には多くの人たちが並んで待っていたので、パスすることにした。実は
「ハレム」は、上流女性を正しく教育するための大学のようなものだった。決して、
スルタンのためだけの施設ではなかった。そうかもしれないと納得しつつも、日本の
江戸時代の「大奥」を思いだしていた。
 夜、ホテルでは正月を迎える大パーティが催された。生演奏が響く中で、着飾った
老若男女が食事をしながら語り合う。若い女性の、肌も露わなベリーダンスは、
非常に官能的であった。宴たけなわになり、多くの人たちが踊り出したので、私も
家内を誘って踊った。
汗がほとばしり・・・・・。
 そして正月を迎えた。たくさんの風船が舞い、大歓声があがった。2002年を
迎えたのだ!
 翌日は雨。正月のためか街はひっそりとしている。我々ものんびり過ごして、
夕方、イスタンブールを後にした。
 イスタンブールは大都会であった。アジアとヨーロッパが入り交じった独特な文化が
生きていた。ただ、ドイツに戻ってホッとしたのは何故だったか。イスタンブールは、
我々にずいぶん懐かしい昔の生活を彷彿させてくれたが、やり場のない、行き場のない、
多くの人たちが“蠢いている”という印象が強かったからかもしれない。