美容院で

  美容院での話である。シャンプー台から隣の椅子へ戻ってきたご婦人が

美容師さんに話しかけた。『この頃、お目にかからないけど皮膚科の田村先生

お見えになってます?ほら、いつもショートカットにしている方ですけど。私も

娘も、以前に大分ご厄介になったことがあるのですよ。こちらで何回かお見か

けしたことがあるのですが…』美容師さんはちらっと私の方を見て困ったように

無言。私のことを言ってらっしゃるのだと解って知らないふりも出来ず、慌てて

私が美容師さんに代わって返事をした。『あのー、お話にでている田村ですが、

今隣の椅子でカットしていただいております』。『あらあら、まあ、どうしましょう、

そこにいらっしゃったのですか、ちっとも知らなかったわ』。       

  確かに、美容院では皆一様に鏡に向かってなるべく頭を動かさないように

しているから、視野は自分の鏡に映っている範囲に限定されてしまう。美容師

さんの手を振り払って横を向かない限り隣の人を観察するチャンスがない。

顔が見えないからこそこんなお笑いみたいな状況が生まれるのだ。

  江戸時代から庶民の身近な情報収集の場は髪結い床(美容院・理髪店)

と銭湯(公衆浴場)だった。ご近所界隈のうわさ話を聞きたければまずここ

で、銭形平次の子分『がらっぱち』も大いに利用していたようだ。それぞれの

町内に髪結い床も銭湯もあり庶民には一番なじみの場所だったのだ。今日

では銭湯は斜陽だが少なくとも美容院での機能はある程度健在である。

共通の知人の動向、芸能人のゴシップ、テレビドラマのあらすじ、プロト野球

から相撲の勝敗、夕飯のおかずのヒントまで、自分が会話に参加していなく

ても次々に繰り広げられ、退屈することはない。         

  でも、まさか美容院で自分の消息が話題になるとは夢にも思っていな

かった。私の名前を口にされたご婦人もびっくりされただろうが私本人も

かなり驚いた。別に悪口を言ったわけでもないのに、お互いにしどろもど

ろになってしまったが、『まあ、しばらくでした、お元気そうでなにより』

と久しぶりの挨拶を交わした。                   

  どこへでも自家用車で出かけるのが当たり前になった今では、

必ずしも自分の居住区域の美容院を利用するとは限らない。従って

ご近所のうわさ話が話題になることは無くなってきたが、江戸時代から

最近までこうして互いの消息を確かめたり、各種生活情報を仕入れて

いたのだろうと思いながらカットの続きをしてもらった。