【50年ぶりのボーイフレンド】
 
  彼との待ち合わせは都内某ホテルのロビーでと言う事にした。
「彼」とは子供時代を過ごした大森でのボーイフレンドの中の一人、
私より1歳年上のオサムちゃんである。私が高校を卒業した年に一度
会ってからそのまま没交渉。年賀状の端に簡単な消息を伝える年に
一回のやりとりだけだったが、歳をとるにつれて「一度会いたい」が
「一度会おう」と言う事まで発展したのだ。そして、とうとう今年
実現する運びとなった。彼も私もちょうど東京へ出掛ける用事の
ある日が重なった4月の木曜日に再会することにした。ペンフレンド
ならぬ年賀状フレンドの状態に終止符を打つ事になったその日は丁度
50年ぶりの出会いというきりの良い日ともなった。


 何故か高校を卒業した時に会っているのにその時の印象はきわめて薄い。
その時の顔を思い出そうとしても、頭に浮かんでくるのは何と言っても
子供時代のオサムちゃんである。思い出す顔はせいぜい7,8歳くらいの
彼である。やせぎすで(当時は食糧事情が悪かったのでやせている人が
多かったが)背がやたらと高くて目の細い大人しいお兄ちゃんだった。

 頭の中に描く子供時代の印象だけでオサムちゃんが見つけられるか
どうか私はちょっと心配だった。彼の手紙には「ハンチングをかぶって
いくからそれを目印にしてください」と書いてあった。そう言えば最近は
あまりハンチングを被っている人を見かけない、それなら大丈夫かも
知れないと少し安心した。直前の用事が長引いたので、待ち合わせ時間に
20分近くも遅れてしまった。焦って駆けつけたロビーにはそこここに
ソファーや椅子が置かれていて、一人ぽつんと腰を掛けている人、
お連れとおしゃべりしている人などが見かけられる。一つ一つチェック
して歩いた、だが見つからない。ハンチングを被った人はおろか、
帽子を被った人ですらいないのだ。私と同年配くらいの人は男の人が
何人か見受けられたが皆無帽である。どうしよう、あまり待たせたので
怒って帰ってしまわれたのではないかとドキドキした。


 呼び出し放送はは最後の手段にと思いながら、もう一巡してみる事にした。
失礼だとは思いながら、今度はソファーや椅子に掛けている人を一人ずつ入念に
チェックさせてもらった。エレベーターホールの近くまで来た時、太った人だが
「目の細い」男の人が見えた。そばへ行って確かめると、腰掛けているソファの
傍らにチェックのハンチングが置いてあるではないか。目は細いが私の想像して
いた「痩せた」人ではなくてとても太っていてお腹の出っ張ったおじいさんである。
目印は「ハンチング」だからと思い、恐る恐る声を掛けた
『失礼ですが山田さんでしょうか?』
彼は『そうです』とハンチングを手にとって立ち上がった。
確かに目の細い背高のっぽの人だ、オサムちゃんだ。
『お会い出来て良かった、お待たせしました。多繪子です』
と改めて名乗った。


 50年ぶりというよりまさに60年ぶりの出会いは次のような会話で始まった。
私『子供の頃のように、やせて背のひょろひょろと高い方をさがしてしていたわ』
彼『君は子供の頃から小太りだったから、もっとぽちゃっとした人が現れると
思っていた。ついさっき、一度私の前を通り越していった時、顔は似ているようだが
まさかあの人が多繪子ちゃんとは思いもしなかったから黙っていたんだ』
私は心の中でつぶやいた「オサムちゃん、ハンチングを被っているって
言っていたのに脱いでいたんじゃ解らないわよ、汗かいちゃったじゃない」。


 50年、60年の歳月がどれほど風貌を変えてしまうのか人それぞれで想像も
付かないが、不思議な事に私たちは二人とも相手の顔つきよりもむしろ体型の印象が
強かったと見え心の中に刻み込んでいた相手の体型を中心に探していたのだ。私は
彼のひょろひょろと背が高い事を確認して始めてオサムちゃんを認識したし、
彼は彼で私のことをあくまでも「小太りの老女」として目の前に現れると
思いこんでいたのだ。互いに相手の顔がどのように老けているかなどということは
考えても居なかったのが何ともおかしかった。指名手配の犯人を捜す手立てとして
似顔絵がよく使われるが、私たちは二人とも顔つきよりむしろ体型を判別の材料に
していたからすぐに自信を持って相手の名前を呼べなかったのかも知れない。


 私は4歳から10歳まで東京大森で暮らしていた。当時ご近所に住む同年齢の
子供といえば男の子ばかりだった。外へ遊びに出ても中々相手にして貰えず、
いつもみんながメンコやベイゴマ、相撲などで遊んでいるのを眺めているだけだった。
ただ一つ仲間に入れて貰えるのは戦争ごっこの時だけで、『おーい、タエコちゃんは
看護婦さんだぞ、やられた奴に包帯を巻く役目をしろ』と声を掛けられると
もう嬉しくなっていそいそとみんなのあとをついて回っていた。いつも集まる
メンバーはハルヒコちゃんとアキオちゃんの兄弟、腕白小僧のノンちゃんと
彼の子分のノグチ君、大人しいオサムちゃんなどで、それに彼らの学校友達が
加わったり近くに住んでいたドイツ人兄弟たちが遊びの常連だった。皆で
遊んでいる間は良かったが、戦況が悪化の一途を辿るとともに遊びどころでは
なくなった。そして疎開のためにゆっくり別れを言う間も惜しんで一人ずつ
次々に界隈から居なくなっていった。仲間の中で最後まで留まっていたのは
代々一家が大森で暮らし大森生まれのオサムちゃん一家だけになった。私が
オサムちゃん一家に別れを告げて京都へ疎開したのは 10歳の暑い夏だった。
『タエコちゃん、元気でね』と声を掛けてくれたオサムちゃんちのおばさんの声が
今も思い出される。あれからもう60年近くが過ぎた。