投げキッス



   去年、韓国と日本はサッカーワールドカップで大いに盛り上がり、試合の中継も十分に

楽しませて貰った。各国選手がゴールしたときのパフォーマンスは様々だが、日本選手と

して初ゴールをあげた稲本選手の自分を指さす仕草は脳裏に深く焼き付いている。彼らの

パフォーマンスは色々あったが観客へ向かって投げキッスをする人たちも多かったように

思う。投げキッスはワールドカップの選手に限らず色々なスポーツの国際試合を見ていると

外国選手は喜びの表現の一つとして良く使っているようだ。


 西洋諸国では愛情表現にキスをする習慣があるから当然のように使われるのは十分に

納得できる。しかし、日本におけるキスの歴史は戦後のことだろう。中学生の頃始めて

アメリカ映画を見たとき、皆が朝から晩まで何度も何度も互いにキスをするのを見た

時はまさにカルチャーショックそのものだった。

テレビジョンの普及がそれに拍車をかけたのではないだろうか。日本でも昨今は若い人の間

ではキスが当たり前になってきているが私自身はいまだ日常生活には取り入れていない。


 ところが最近、私は突然アメ・アラレの投げキッスを浴びる身になってしまった、なんと幸

せなことだろう。ときどき往診に行く特別養護老人施設でのことである。相手はご高齢の方々

なのであちこちが痒いとかカサカサするとかとごく軽い訴えの方が多い。その日に診察した

方の中で、Wさんという御婦人がいらっしゃった。診察を終わって『じゃあまた伺います、

お大事にね』と言って部屋を出ようとしたとき、『先生、ありがとね』と私の背中に声がか

かった。『どういたしまして』と言いながら振り返ると、Wさんはニコニコ笑いながら右手

の人差し指と中指を唇に当てるなり「チュッ」と音を立ててから私に向かって腕を振ったのだ。

驚いた、それって投げキッスじゃないの。まさか私が投げキッスを頂けるなんて、思っても

いなかったことだ。過去、現在の私にとって全く縁のない行為でまさに晴天の霹靂だった。

突然の投げキッスに驚いた私は『キッスを頂くなんて驚いたわ、ありがとう』と辛うじて答

えて部屋を出た。


 次の往診からは私も負けるものかとWさんの投げキッスにお返しをすることにした。彼女の

上をいこうと両手でキッスを返して見せた。お互いにキスの応酬である。寮母さんにも同室の

方にも大いに受け、看護婦さんなどは涙を流して笑い転げた。それ以来、彼女とはまさにキス

仲間、お互いの挨拶は投げキッスである。


 Wさんは92歳。私の母親くらいの年齢である。多分戦前、戦後に外国映画を見ていたの

かもしれない。母も当時見た映画の話、俳優の名前をよく口にしていた。でも今私が思い出

せるのはマレーネ・デートリッヒくらいのものだ。母が見たものと同じ映画をWさんも見た

だろうか。