【トルコの休日】 
                      20) シルクロードの隊商宿 『キャラバン・サライ』
 
コンヤからカッパドキアへの道は一部シルクロードを通ったのだ。
BC2、3世紀頃から主としてローマ帝国と漢・秦との交流通路だった、あのシルクロードだ。ローマ帝国は絹織物や陶器を中国に求め、スパイスなどを漢・秦へ商いしたと言う。目玉商品を絹として、東洋と西洋を結ぶ道と言う意味で後世「シルク・ロード(絹の道)」と呼ばれるようになったのだが、英語でも日本語でも素敵な名前だ。今でも大勢の人がこの「道」に当時を思い、夢を馳せ、心惹かれるのだ。
 
私はバスの中で当時のシルクロードについて想像を膨らませ、勝手にロマンチックな光景を思い浮かべていた。風と砂の音しかし聞こえない砂漠を、人や荷物を載せたラクダ(馬、ロバ)が、夕陽を浴びて長い影を引きながら、オアシスを目指して移動していく隊商の列。そこはかとなく哀愁を漂わせる光景、平山郁夫画伯の作品の数々が次々に浮かんでくる、それこそが心の中で育んできた私のシルクロードの姿なのだ。
 
しかし、私たちがバスで通ったシルクロードは、丘のような低い山、粘土のような色をした埃っぽい荒れた土地、所々に低い木があるだけ。近年になって開墾したらしい畑のような区画がたまに見えたに過ぎない。思い描いていたシルクロードの砂漠の起伏とはほど遠い景色だった。想像と現実とのギャップにたじろいでしまった。
 
程なく、コンヤとカッパドキアのほぼ中間当たりにある、木々がややおい茂った区域へ差しかかった。このあたりは昔オアシスと呼ばれたところだったのだろうか。やがて、石造りの大きな高い塀と立派な門の建物の前の駐車場へバスは止まった。スルタン・ハンのキャラバン・サライへ到着だ。
 
キャラバン=隊商、サライ=宮殿、と言う意味で「隊商宿」のこと。恥ずかしい話だが私は帰国するまで、「キャラバン・サライ」とは、この建物の固有名詞だとばかり思っていた。トルコではアナトリア地方を中心に、約100くらい残っているそうで、ここのキャラバン・サライが一番保存状態が良いそうだ。確かに門構えも建物も「宮殿」といってもおかしくない立派なものだった。
 
 
写真1 私たちが立ち寄ったキャラバン・サライ。ちょっと閉鎖的な感じがするが、立派な入り口と塀
     である。
     
私たちが立ち寄ったこのキャラバン・サライは、13世紀頃に作られたものでトルコで一番大きい。幅50メートル、奥行き100メートルの広さで、高い塀に囲まれ、入り口は一つしかない。確かに立派には違いないが、何となく厳めしくて堅固で、刑務所を想像してしまった。
この「キャラバン・サライ」は旅人や動物、荷物を盗賊などの外敵から守り、人・ラクダ・馬・ロバなどに食べ物と水、そして休養と寝所を与える目的で作られたものなのだ。さらに、病人は医療まで施されたとか。当時、シルクロードを行き交う人達は誰でも、とても手厚くもてなされたのだと感心した。ここでの諸費用を、誰が賄っていたのか分からないが、宿泊・食事・医療などはすべて無料で奉仕されたと聞くと驚いてしまう。それなら旅人にとってはまさに「宮殿」に違いない。日本でも、四国巡礼の旅をするお遍路さんには、土地の人達が茶菓で手厚い「おもてなし」をするというしきたりがあるが、心はそれに通じるのではないだろうか。
 
 
写真2:細かい彫刻が施された美しい門。壊れた部分は修復されている。
 
 
 
写真3:中庭で説明を聞く。私たちは写真右手の小さな木が作る影に入っている。
     右は居住区の回廊。左の建物は礼拝堂。中庭は石畳作りで、樹木が少なく「オアシス」
     と言うイメージにはそぐわなかった。昔はあったのかしら・・・。
 

 門を入るとそこは広い中庭だった。中庭はとても広く中央広場という感じだ。隊列を組んで門を通り抜けた後、この広場でラクダやロバから荷物を下ろして荷物置き場へ収納した後、自分たちも旅装を解いたのだろう。中庭の奥には礼拝堂として使われていたという建物があった。きっと朝夕にはあたりに祈りの声が響いたのだろう。
木は想像していたより少ないが、人びとは少ない木陰の石畳に腰をおろしてナツメヤシなどの実をつまみながらお茶を飲み、おしゃべりをして休養を取ったのではないだろうか。
 
両側はアーチ型の美しい回廊が続き、その奥は石畳の広間になっていた。礼拝堂を挟んで一方の回廊奥には旅人のための宿泊場所や食堂・厨房などの居住区域があり、他の側にはラクダや馬など動物たちの収容部分と、荷物置き場となっていたのだ。
施設全体はかなりの広さだ。何人くらいの人達がここで休養したのだろう。急ぎの旅なら1泊で立ったかも知れないし、ケガや病気の人がいれば充分に休養を取って、癒えてから出掛けたのだろうか、あるいは他の人達の帰り道までここで過ごしていたのだろうか。
キャラバン・サライで休養し、元気を取り戻した人達は、再び「絹の道の旅人」として目的地へ歩を進めたのだろう。
 
 
写真4:礼拝堂の左側の建物。この中は荷物や動物を収容したところらしい。
     ここの壁にも修復の後が認められる。
 
ここも入場は有料だったはずだが、チケットは無くしてしまったようだ。