【帰ってきたウロチョロマン】

 4歳のヒカル君と年子の妹マドカちゃんは私が週1回診療している病院での患者さんである。
殆どのお子さんは始めて出会った時は大人しくても、何回か通院している内に次第にうち解け、
私たちの会話に乗ってくるのが普通だ。彼もその例に漏れず、始めて外来へ来た半年前には
とても神妙で物静か、まるで「借りてきた猫」のようだった。何を言ってもじっとうつむいた
まま、『さあ、お洋服を脱いで痒い所を見せて頂戴』と言っても、妹を押しのけて母親の後ろへ
隠れてしまった。とうとうその日は一言も物を言わず、洋服を母親に脱がされてもそのまま
だまって突っ立っているだけだった。『今どき珍しく大人しい兄妹だわねえ、あれなら
お母さんも楽で良いわ』と看護師さんもわたしも感心したものだった。

 ところが、あの初診の日、終始母親の陰からそっと覗くだけで一言も声を出さないまま帰って
行った大人しいヒカル君が、2週間に1回の通院が度重なうちに徐々に私たちに馴れてきて、
本来は根っからの元気印のやんちゃ坊主である事を見事に証明していった。静かなマドカちゃんに
対して、待合室から響いてくるお兄ちゃんの声も初めの頃は内緒話のようにヒソヒソ声だったが、
徐々にに大きくなっていった。このごろでは、いつも聞こえてくるのはヒカル君の元気な大声
ばかりで、たまにマドカちゃんがしゃべっているようだがその声はかすかにしか聞こえない、
やはり女の子は大人しいと思った。そうこうする間にヒカル君は行動面も活発になってきて、
ばたばたと廊下を走り回っている足音と、お母さんが『大人しくしなさい』と叱りつける声が
交互に聞こえる事が多い。時にはマドカちゃんの悲鳴と泣き声とが入り乱れる事もあり、
どうやらけんかもしているようだ。初診の日の無口で物静かな男の子だったヒカル君はすっかり
なりを潜め、今ではこの上なく活動的で元気印の男の子へと変身してしまった。

 診察室に入ってくるやいなや『こんにちわー!』とわめくように言って、私や看護師さんを
尻目に、広くもない診察室の中を歩き回り、顕微鏡に興味を示したかと思うと、液体窒素の
ボンベのふたをい開けようと試みたり片っ端から引き出しを開けて中を覗くので、とうとう
看護師さんが『そんなにウロチョロしてあちこち勝手にいじっているとお終いには怪我して
泣かなきゃならないから』と脅かしながら付いて歩いている始末。他方、マドカちゃんは
相変わらず無口のままお母さんの上着の裾をしっかり握ってお兄ちゃんの様子を何となく
羨ましそうに眺めている。

 先週もいつもどおりの元気なヒカル君の声が響いてきていた。カルテの順番はまだ数人先、
「もう少し我慢して大人しく待っててね」と心の中でつぶやきながら仕事を続ける。やっと順番だ。
『おまちどおさま。ヒカル君、マドカちゃん、お入り下さーい』と呼ぶ。『・・・・・』。
返事がない。二人の声も聞こえない。もう一度呼んでみるがやはり誰も入ってこない。
「せっかく順番が来たのに」と思いながらカルテを横へ避けて次へ進む。診察の合間に時々耳を
澄まして様子を窺うがどうも居ないようである。もしかすると待ちくたびれて帰ったのかも知れない、
と考えつつ診察を続ける。とうとう最後の患者さんのカルテを引き寄せ名前を呼ぼうとした矢先、
ヒカル君のお母さんが顔を覗かせて『マドカをトイレに連れて行っている間にヒカルがどっかへ
行ってしまって見つからないんです、もう一度探してみますのでちょっと待ってください』とのこと。

 とうとう最後の方の診察も終わってしまった。どうしようかと考えていたら例の賑やかな声と
足音が聞こえてきた。やれやれ見つかったのだ、よかった。どうもお母さんにこっぴどく叱られた
と見えて、真っ赤に上気した顔に汗を浮かべて珍しく神妙に診察室へ入ってきた。
『まあ、ヒカル君。呼んでも居なかったじゃない。何処へ行っていたの』と尋ねると彼にしては
信じられないくらい小さな声で『2階』という。母親が後を引き継いで『勝手に一人で2階へ
行ったのは良いけど、帰りの階段が見つからなくて2階の廊下をあちこちウロウロしていた
らしいです。よその方に手を引かれて降りてくる所へ出くわしました』。それにしても変な所へ
紛れ込んでしまわなくて何よりだった。『ちゃんと帰ってこられて良かったね、ヒカル君。
今度からお母さんに黙って何処かへ行ってしまってはだめよ』と私が言うと素直に小さい声で
「うん」と答えた。『そうだ、ヒカル君はいつもじっとしていないでウロチョロウロチョロして
いるから、今度から君の名前は【ウロチョロマン】にしましょう。診察の順番がきたら
「ウロチョロマンさーん、診察室へおはいりください』と呼ぶわよ。それまであちこちへ
行かないでじっと待って居なきゃ駄目よ』と釘をさした。2階からやっとの事で戻ってこられた
ヒカル君、まさに【帰ってきたウロチョロマン】だ。