「痘瘡」について
   −異本病草紙考 その16−

       高崎市医師会 服部 瑛

 「痘瘡」は別名“疱瘡”あるいは“天然痘
”とも呼ばれる。きわめて恐れられた伝染性
疾患であった。そのために“痘瘡神”の信仰
が生まれたと、前回述べた1)。その具体例と
しては、「痘瘡神社」「痘瘡を祭る祠」など
だが、群馬県においても、その存在を確認で
きる2,3)。これは群馬県に限ったことではな
く全国で普遍的に行われていたことである4)
。 偶然に日本学校保健会の『学校保健の動
向』5)の中で、“感染症・食中毒年表”を目
にした。その中には明治元年からの痘瘡の発
生に関する貴重な資料が付記されていること
に気付いた。試みに痘瘡に関連する項目を抜
き出してみたところ、多くの関連項目
を見つけることができた。驚くべきことに、
その致死率が16.7% から51.2% の高率に及ん
でいることだった。当時の痘瘡に対する庶民
の恐ろしさは想像を絶するにあまりあったこ
とがよくわかる。さらに、比較的最近まで痘
瘡が存在していたこともはじめて知った。日
本では昭和30年に痘瘡が終焉し、昭和55
年になってようやく地球上から“天然痘根絶
宣言”がなされた。
痘瘡に関しては、明治35年の皮膚科書6)に
よれば、「真痘」「假痘」「融合痘瘡」「痘
瘡紫斑」の4型に分類されている。死亡率は
「真痘」「假痘」が約30% 、「融合痘瘡」「
痘瘡紫斑」で90〜100%といわれ7)、きわめて
伝染力が強く、死亡率の高い病気だった。
 イラク戦争の際、生物化学兵器の存在が恐
れられたが、もし使用されたならば重大な影
響があったはずである。それを未然に防ぐこ
とは大切だが、私たち医師は常に痘瘡の臨床
・病態を十分に把握していなければならない

その典型的な臨床をかい摘んで記載すると
、“皮疹はまず小紅斑として現れ、顔、頸な
どから全身に及び1〜2日中に丘疹から小水
疱へと発達する。小水疱の中央に痘臍がみら
れ、1日くらいで膿疱となる。膿疱となると
痘臍はなくなり、やがて乾燥して痂皮となる
7)”。
治療は難しいが、種痘で予防は可能となっ
た。かの有名なジェンナ−によって完成され
た“牛痘接種法”から始まったこと(1795)は
周知である。翻って日本では嘉永2年(1849)
に始めて種痘が行われた。その僅か2年後、
安中藩主板倉勝明の命により五科村から大々
的に種痘が行われた事実8)が、清水英一先生
より第104 回日本医史学会で報告された。
大阪や江戸での種痘よりも早い。これは
驚くべきことである。安中市は、今でこそ群
馬の西毛に位置する田舎かもしれないが、そ
の当時安中は中仙道の中心地で、我々が想像
する以上に様々な情報交換があったにちがい
ない。ちなみにさらに辺境と思われる、群馬
のポンペイとして有名な嬬恋村での発掘調査
では、全国各地の珍しい品物・調度品が見つ
かったことを松島榮治「嬬恋歴史博物館」館
長からお聞きした。それらのことを考えると
、主要街道、中仙道を巡る情報網は、その当
時東海道などとともに際立っていたのではな
かろうか。
 明治に入っても日本全国では表のごとく痘
瘡は流行を繰り返した。その原因として牛痘
接種は角が生えるなどという偏見があったた
めだったと記載されている8)が、むしろ種痘
をサポ−トできるだけの財政的・行政的基盤
がなかったと考える方が妥当かもしれない。
そうした観点からも板倉勝明による種痘の実
施8)は先見性も含めて特筆される。
現在私たちは“SARS”に翻弄されてい
るが、過去には何度も同じように痘瘡・その
他の伝染性疾患でパニックに陥ったに違いな
い。
 SARSのような新しい感染症に対する対
策も大切だろうが、痘瘡のような絶滅したと
思っている(?)病気にも、今後十分な注意
が必要なのであろう。医療には常に謙虚さが
求められていることを、今回の資料で思い知
らされた。

         文献

1)服部 瑛:群馬県医師会報,657:40,2003
2)丸山清康:『群馬の歴史』,群馬県医師会
 ,前橋印刷(前橋市),1958.12
3)根岸謙之助:『医療民俗学論』,雄山閣出
 版(東京),1991.3
4)立川昭二:『近世病草紙』,平凡社(東京
 ),1979.2
5)日本学校保健会:『学校保健の動向』,勝
 美印刷(東京),2003.11
6)山田弘倫、旭憲吉:『皮膚病診斷及治療法
 』,朝陽堂書店(東京),明治35年10月
7)山村雄一他編集:『現代皮膚科学大系
6B 』,中山書店(東京),1983.10
8)淡路博和:『安中藩の種痘』,安中藩政史
研究1,2001.10