「異本病草紙」考その10

      高崎市医師会  服部 瑛
      国立京都病院  荻野篤彦

 今回私は、国立京都病院皮膚科医長の荻野
篤彦先生らのご協力を得て、「異本病草紙」
36図の医学的解釈を試みた。それらは、「
異本病草紙」考−その1からその91-9)とし
て、荻野篤彦先生との共著で、この群馬県医
師会報に掲載させていただいた。こうした試
みは、恐らく初めてのことであろうと、医学
史に造詣の深い、関西の医学史会の重鎮でい
らっしゃる長門谷洋治先生(長門谷皮膚科、
大阪府豊中市)から先日ありがたいご丁寧な
お葉書をいただいたばかりである。
 この「異本病草紙」は、まだ詞書が発見さ
れていない1)。従って今回の医学的解釈は推
測の域を出ない。そうした現状のなかで、と
りあえず問題提起をさせていただいた。そこ
から間違っている部分を削除し、新しく実証
するに足る事実を付加していけばよいという
比較的安易な考えから始めた作業である。多
くの歴史学者からは非難されることなのであ
ろう。しかしながら、こうした試みを地道に
続けることのなかから、「異本病草紙」は多
くの有益な、平安時代末期から鎌倉時代初期
というかなり過去の医学・医療の実態を知ら
しめてくれるように思われるのである。
 意外にも「歴史学」と「医学」との接点が
少ないと嘆かれる群馬県立歴史博物館館長の
峰岸純夫氏の述懐が私の印象に残っている。
私たちのこうした作業は、無益な検索かもし
れない。しかしながら、それでも私にとって
はライフワ−クに成り得る魅力ある挑戦でも
あるとも思っている。
 先日、唐澤至朗氏から全く意味不明と考え
られていた唐絵3図(図18−20,「異本
病草紙考」−その55))の新しい解釈を、中
国研究者の来日を機会に討議・討論を行って
一つの試案を得たとの嬉しい連絡を受け取っ
た。
 協議検討者は、中華人民共和国山西省考古
研究所助理研究員 王虎應氏(ワン・フォ−イ
ン氏)(仏教学)および群馬県立歴史博物館
主幹 唐澤至朗氏(仏教考古学)である。
 以下その所見をそのまま列記(一部加筆)
させていただく。
1)当該図は、先の論文で唐澤・服部11)
 そして荻野・服部12) が記述したごとく、
 いずれも中国の風俗を題材にしたものとし
 てよい。(王氏)
2)当該図は、いずれも外科療法11) を図
 示したものではない。(王氏)
3)当該図は、精神疾患を図示したものと思
 量される。(王・唐澤氏)
4)天蓋を差し掛けられている老人は、天蓋
 自体が王侯の用具であることから、病人に
 貴人であるとの幻覚が生じていることが考
 えられる。(王氏)
5)霍乱状態と観察される老人の図と、雲上
 の人物が抱える楕円形球状の物体の図は、
 一連のものと思量される。(王・唐澤氏)
 天から重い石あるいは物体が投げつけられ
 るという凶事を夢想するもので、類例は存
 在している。(王氏)
 お二人の討議・討論から、全く不詳であっ
た唐絵に関する新しいより理解しやすい見解
が与えられたように思われる。唐絵3図が、
構成的には2図であった可能性が高いのである
。図を再掲させていただく。図18「精神異
常を来した男性」と図19、20を合図とし
て「霍乱状態の老人が、天からの凶事を恐れ
る様」と表現できるのではあるまいか。つま
り、この錦小路家写本「異本病草紙」は36
図ではなく、35図より成っているものと考
えられるのである。
 ちなみに、私が唐澤氏に贈呈した「医家芸
術」にそれに近い表現があると言及してくれ
た。それは、田村豊幸先生13) の「従一位太
政大臣藤原仲麻呂の墓所が不明な理由」に「
記録によると、なぜか、その夜、仲麻呂の臥
屋に甕(かめ)ほどもある隕石が落下して、
あやうく死ぬところだったという。まことに
不吉な前兆があったのだ。」という一文であ
る。出典が明示されていないのが残念である
が、その昔広く一般的にこうした凶事に纏わ
るエピソ−ドが認識されていたものであろう
ことは十分に考えてよいと唐澤氏は述べてい
る。現在その出典先を確認中である。
 たかが平安時代の絵巻物といったら失礼で
あるが、私は多くの興味ある知識を得ること
ができた。さらにはこの絵巻物を通して、多
くのすばらしい人物と接触する機会を持てた
ように思われる。
 「温故知新」という言葉がある。医学史は
まさにそうした世界なのであろう14)


 
図18 精神異常を来した男性                図19、20 霍乱状態の老人が、天からの凶事を恐れる様


 文 献
1)服部 瑛・荻野篤彦:群馬県医師会報,
 「異本病草紙」考−その1,608:55-57,19
99
2)服部 瑛・荻野篤彦:群馬県医師会報,
 「異本病草紙」考−その2,610:53-55,19
99
3)服部 瑛・荻野篤彦:群馬県医師会報,
 「異本病草紙」考−その3,611:81-83,19
99
4)服部 瑛・荻野篤彦:群馬県医師会報,
 「異本病草紙」考−その4,612:59-61,19
99
5)服部 瑛・荻野篤彦:群馬県医師会報,
 「異本病草紙」考−その5,613:30-32,19
99
6)服部 瑛・荻野篤彦:群馬県医師会報,
 「異本病草紙」考−その6,615:67-69,19
99
7)服部 瑛・荻野篤彦:群馬県医師会報,
 「異本病草紙」考−その7,616:38-40,19
99
8)服部 瑛・荻野篤彦:群馬県医師会報,
 「異本病草紙」考−その8,617:35-37,19
99
9)服部 瑛・荻野篤彦:群馬県医師会報,
 「異本病草紙」考−その9,619:31-33,20
00
10) 服部 瑛・荻野篤彦:群馬県医師会報,
「異本病草紙」考−その10,620:29-31,20
00
11) 唐澤至朗・服部 瑛:錦小路家写本「異
 本病草紙」の制作・流布の史的背景、群馬
 県立歴史博物館紀要,20:107-126,1999
12) 荻野篤彦・服部 瑛:「異本病草紙」に
 ついて,皮膚病診療,21:751-759,1999
13) 田村豊幸:医家芸術,42:76-92,1999
14) 服部 瑛:今こそ皮膚科医学史の集積・
 検証を,皮膚病診療,22:213,2000

 今まで文献の掲載をしなかった。今回から
少しずつ文献を紹介させていただく。なるべ
く重複がないようにしていきたい。
 次回、従来より知られている「異本病草紙
」との差異を中心にして述べてみたい。