「異本病草紙」考−その14

       高崎医師会 服部 瑛

3.群馬縣醫學校

 長門谷洋治先生は、異本病草紙ばかりでな
く、群馬県の医学史に関する資料にも注目し
、時折私にその情報をわざわざ送ってくださ
った。
 なかでもきわめて貴重だったのは、明治
12年12月改定の『群馬縣醫學校規則』で
ある。(図1)。
 関根正雄氏の「群馬県の医史」を繙くと次
のように記載されている1)。

明治の医育は、明治七年の熊谷県に発し、
同九年群馬県となり前橋に移された。明治十
二年、群馬県医学校に改められ曲輪町に移さ
れて充実する。初代校長は大久保適斎で専任
教職五年、学生24人修業三年である。明治
十四年財政の行詰りに閉鎖される。生徒は東
京に送られ県費を支給された。明治22年ま
でには、全国35校が同じ運命であった
(原文のまま)。

 当時の建物は、桐生市に「桐生明治館」と
して今なお保存されており、昨年7月訪れて
みた(図2)。建物内部は比較的良好に保
存されていたが、展示されていた資料は貧弱
であった。可能ならば、もう少し調べてから
、この『群馬県醫學校規則』を博物館に寄贈
したいと思っている。
 校則は、13章の規則からなっている。

第一章  職制
第二章  職務章程
第三章  教則
第四章  入學規則
第五章  教場規則
第六章  生徒寄宿所規則
第七章  學暦
第八章  書式
第九章  生徒罰則
第十章  醫局規則
第十一章 藥局規則
第十二章 病舎規則
第十三章 生徒試験法験

 それぞれに簡潔に説明がなされているが、
第三章の教則は下記のごとくである。

        第一期
物理學     化學      解剖學
        第二期
化學      解剖學     植物學
        第三期
組織學     生理學     繃帯學
        第四期
生理學     内科總論    外科總論
        第五期
内科總論    外科總論    藥物学
診斷學断
        第六期
内科總論    外科總論    眼科學
        第七期
内科各論    外科各論    眼科學
        第八期
内科病床講義  外科病床講義  産科學
        第九期
内科病床講義  外科病床講義  判訟醫學

 このなかで、基礎から臨床への講義過程は
現在の医学教育にも通じる。基礎の終わりで
「繃帯学」のあることは、薬品の少ない時代
では、治療のなかで繃帯学が重要な位置を占
めていたと推察される。
 臨床では、「眼科學」が重要であったこと
が分かる。昔から眼病変は日常的なもので、
患者を相当に苦しめたのであろう(平安時代
の病草紙、異本病草紙にも眼病変と、その治
療が一端が描かれている)。
 この時代から「判訟醫學」が教則の中に認
められることは興味深い。医療技術がなお稚
拙なために、想像以上に医療事故が多かった
のであろうか。
 残念ながら、私の専門の皮膚科学について
の講義は無い。また整形外科や小児科、泌尿
器科など多くの科目は、独立していなったよ
うである。
 皮膚科学に関しては、土肥慶蔵先生がウィ
−ン大学のカポシなどからの研修を積んで東
京大学に始めて教室を開設されて3)、昨年(
平成13年)100周年を向かえた。かよう
に皮膚科学の歴史は古いのである。
閉校された群馬縣醫學校の生徒は、東京大
学などに送られたというが、医師として独立
できた者は極めて少なかったという。このあ
たりの調査はなお未知の分野であり、ごく短
期間しか存在しえなかった群馬縣醫學校の詳
細を是非調べ、後世に残して欲しいものであ
る。

4)佐藤医院

 長門谷先生のお蔭で、いくつかの古書店か
らカタログが送られてくるようになった。
 高崎市にも全国的に知られた有名な「名雲
書店」という古書店がある。高崎市八千代町
にあり、ここからも定期的にカタログ集が送
られてくる。最近、前野良宅・杉田玄白らの
『解體新書』も紹介されていた4)。それを見
た長門谷先生がびっくりされ、お手紙をいた
だいた記憶がある。
 それらのカタログから、土肥慶蔵先生監修
の明治・大正時代の図譜5)など、必要と思わ
れるもの、珍しいもの等、可能な限り購入す
るようにしている。これらの古書の中には今
や見られない梅毒や天然痘の臨床が詳細に描
かれており、いずれ役立つ時もあろうかとも
思う。さらには、可能な限り皮膚科の歴史を
調べておきたいという願望もある。
 そうした中で、某古書店(東京都武蔵境市
)のカタログを見ていたら、まったく偶然に
「佐藤醫院、戦前、群馬県高崎市、医院前に
医師と家族」という写真の紹介があった。詳
細はわからないが、おそらく高崎では歴史の
ある「佐藤医院」であるに違いはない。「金
子/高崎」というスタンプが左下にみられる

 「群馬県の医史」1)によると、「群馬の医
家は、江戸前期の家系で医となって、いまも
続く旧家が少なくない。高崎の佐藤家もその
一つである。」と記載されている。
産婦人科佐藤仁先生(産婦人科出張佐藤病
院)に、その写真を点検していただいたが、
よく分からないという。親戚の先生のものだ
ろうか? 佐藤医師と奥方、祖母、子供二人
の写真と思われる。当時は写真で見られるよ
うに、自宅が医院であるのが普通だったので
あろう。ちなみに佐藤仁先生は19代目の医
師であるという。それ自体驚くべき事実だが
、佐藤先生ご自身によって、それらの貴重な
歴史を是非残しておいていただきたいもので
ある。

付記:平成14年4月23日、豊中市の北村
公一先生より、長門谷洋治先生は1か月前ほ
どよりご回復されて、現在リハビリ中である
というご連絡をいただいた。吉報に接して、
ただただ嬉しい思いである。
 先生の再起をお祈りするばかりである。

         文献

1)日本医史学会編:三一書房,東京,1997
3)長門谷洋治:北陸医史,21:57,2000
4)名雲書店:ニュ−スボ−ド,34:36,2000