異本病草紙における皮膚発疹症について 異本病草紙考−その19

      

高崎市医師会 服部 瑛

 ここに3図の異本病草紙の絵図を示す。原図は着色されていないが、パソコン処理(フォトショップ)で不自然でないようにカラー化を試みたが、残念なことにこの雑誌では示すことはできない1)

 図1は、「重症水痘」と診断した2)。図2は、子供のようにも見えるが、髷を結っているので大人である。顔面が浮腫性なのでそう見えるのかもしれない。「中毒疹」と診断した3)。図3は子供の全身の発疹で「麻疹」と診断したものである4)

 しばらくこれらの絵図を眺めていたら、これらの発疹は、おそらく「痘瘡」や「麻疹」ではないであろうという確信を持つに至った。何故ならば、麻疹はしばしば流行を繰り返し、痘瘡も、平安時代では、30年に一度大々流行があったと記載されている5)からである。痘瘡も麻疹も、当時の人たちにとって恐ろしい病気ではあったが、決して珍しくはない、熟知された疾患だったと推察される。

 ちなみに「痘瘡は器量定め、麻疹は命定め」といわれた6)ように、後者の麻疹の死亡率は高く、大量死亡をもたらしたという。おそらく栄養状態が悪く、医療も未熟だった当時では、たやすく肺炎や脳炎などを併発し、命とりになったのであろう。麻疹がひとたび流行すると、その地域の全住民が罹患した。そして、地域住民に免疫ができると15年から20年は流行をみない。ところが免疫がなくなった世代では、また感染し、周期的流行が繰り返されていたと記載されている6)

 痘瘡に関しては、奈良時代と平安時代初期は、約30年周期だったが、しだいにその周期は短縮され、後には約6、7年周期となり、ついには毎年小流行を繰り返すようになったといわれる7)。その実態は「小児は10人に2,3人は死に、また10人に2,3人は醜い顔(痘痕)になる」とある6)。日本人をもっとも長く、深く苦しめてきた疫病だった。

 そのような日常的な疾患を果たして「極秘」と記された絵巻物(図4)に収めるだろうか。そう考えると、図3は、子供の全身に発疹する「風疹」や「突発性発疹」のようなものでもよいと思えるようになった。もしそうならば、この絵巻物に掲載された疾患は「痘瘡」や「麻疹」とよく似ている皮膚疾患をあえて描いたように思えてならない。図1は痘瘡に、図2と3は麻疹に似た疾患と考えると、私の持論も的はずれではないような気がしてくる。

 さらに、ここに示した3図はいずれも、家人が心配そうに寄り添って、手厚い看病をしていることがわかる。伝染力が強く、致死率の高い「痘瘡」ではこのようなことはなかったはずである。当然のことだが、隔離することが常識的であろう。「麻疹」の場合は、小児で感染することが通常なので、すでに感染した大人は看病可能である。その程度のことは当時の人たちは十分に知っていたにちがいない。

 それ以上に興味深く思ったことは、家人の看病のしかたである。病人をいたわることは現代でも当然と思われるが、この絵図に見られるほどに皆が寄り添い、やさしく、そしてこまやかであろうか。平安時代のこの頃は、医学に関して無知に近い状態ではあったが、その代わり心から看病することで病人をいたわり、快復を祈ったように思われてならない。これらの絵図には、人間の持っている本来のやさしさがふつふつと醸し出されているように思われる。

 新しい視点から、もう一度この異本病草紙を調べてみたいと今考えている。

文献

1)          服部 瑛:Visual Dermatology1826,2002

2)          服部 瑛,荻野篤彦:群馬県医師会報,615681999

3)          服部 瑛,荻野篤彦:群馬県医師会報,615671999

4)          服部 瑛,荻野篤彦:群馬県医師会報,616391999

5)          村上三郎:平安時代の文学に現われたる疾病とその対策,朝日印刷,前橋,1991

6)          立川昭二:近世病草紙,平凡社,東京,1979

7)          中島陽一郎:病気日本史,雄山閣出版,東京,1995