高野長英と高橋景作

−異本病草紙考 その27−

 

作家吉村昭氏の小説『長英逃亡』1)では高野長英は牢舎から脱獄した後、武州から上州中之条に潜伏し、その後越後に向かったとしている。これに対して異論を唱える高名な長英研究者がいる2)。氏は、「非人栄蔵に放火させ、小伝馬町の牢舎から脱獄(6月30日)。ただちに郷里に向かい、のち米沢をへて、江戸に再潜入。鈴木春山の庇護のもとに市中に潜伏する」と考え、上州への逃避行は無いと断言されている。

 吉村昭氏の『長英逃亡』から、私は上州における多くの医師を知ることができ、このことが私にとっては大きな収穫であった。『高野長英と幕末期の上州の医師たち』と題して本誌にそのことを連載した別冊を、高橋景作のご子孫である高橋忠夫氏にお送りしたところ、早速お手紙をいただいた。

「前略     

昨秋 夜長のこととて これまで顧みなかった景作の歌句集を読み 聊か驚いた次第で一文を錣ってみました。推測の多い身勝手な内容でありますが添えましたので読んでみてください。

    平成19年216日 高橋忠夫」とある。まずはその文章を紹介することから始めたい。

「脱獄後の長英と景作の関係を示す直接的資料はない。景作は明治2年に嗣子を失っているので、孫の弁次(1860-1941)に語り残した。弁次はこれを、長英を文殊院(図1,2)に匿い旬日の後「利根ヲ過リ再会ヲ約シテ別ル」と書き残している。

 景作日記3)については金井幸佐久先生始め多くの学者によって検討されたが、そこには脱獄後の関係を示すものはない。日記の第1冊も昭和になって別のところから私が見つけ出したもので、すべては処分済みで脱獄後の長英との関係を示すものは一切無い。ある筈もないと決めていた。しかし、昨年秋より景作が遺した歌句集を見るにつけ、間接的ながら弁次の書き残しが正しかったと思われるに至った。

 景作は和歌集2冊と俳句集1冊を残している。和歌集は「無名雙紙」と「名奈之雙紙二」(図3)、俳句集は「無名草紙」である。「無名草紙」の春の部に「二井峠にて」として

  雲雀より 上に馬なく 峠哉

の句がある。この句は再び「二井宿にて」として別のところにも挙げている。これは景作にとって特別に深い思いに連っていると思われる。三国街道は三国峠を越えて最初の宿が「浅貝」であり次が「二居」である。句の峠とは浅貝から二居へ越える峠かも知れない。景作日記を調べてみても彼が越後へ行った記事は無い。景作はこの時だけ越後へ行き二居宿で長英と別れたのではないか。無名草紙には上の句の外にも「三国嶺」として

  短くて あわれの深し 草の花  

がある。又歌集「名奈之雙紙二」には「別後会難期」として

  暁のとりも恨みし  又いつと 

    契りて帰る  別なりせば

さらに

  行末の あふせはいつと しられねば

    いとど かなしき けさの別路

とある。

 その後の景作は自らを隠れ住む身としている。罪人を匿い更に逃亡を手伝った身は又罪人であることを思へば自らの身の上を案ずるのは当然であろう。或いはその上に猿ヶ京の関所破りもしたのではあるまいか。大道峠・恋越の峠・三国峠と往復したのではあるまいか。歌句集の標題の「無名」も決して遊び心の語ではなかろう。

無名雙紙には「幽棲霰」として

  遁れ住 草の庵は 霰さへ

   音にも たてで 降ぞ過ぬる

また「鴬」として

  かくれ家の 竹にやとれる 鴬は

   人く 人くと いとふ聲する

とある。又「無名草紙」には

  隠家と いふてもなけよ 桃の花

がある。桃に災厄除けの願いもこめられているのだろうか。その後世が変っては無名草紙に

  隠家に 成しおほせたる 紫苑かな

と言い、また「無名雙紙」に「幸遇太平代」として

 たまたまに 人に生れて 如欺かくばかり

    めでたき時に あふそ楽しき

としている。(原文のまま)」

 高橋景作が高野長英を匿ったことを知って欲しいと思う高橋忠夫氏の並々ならぬ意気込みがさりげない文章から発露しているように感じられた。数日後お電話したところ『群馬県医師会報』に掲載することを快諾してくださった。

 『長英逃亡』によると、高野長英は湯本俊斎の従弟である順左衛門にかくまわれた後、越後にいくことになる。当時からいくつかのルートがあったが、越後へ通じる代表的な道は、三国街道であった。三国峠を越えると、越後国浅貝、そして二居に繋がる。しかし三国峠をこえるまでには須川と永井宿の間に幕府管理の猿ヶ京関所がある。当時関所破りは、大罪であった。関所におかれた周囲一帯は要害地域に指定され、街道からそれてそれらの地域に入ることは厳禁され、土地の住民が焚火ひろいや落葉あつめに入ることすらゆるされていなかった。関所をさけて要害地域に一歩でも足をふみ入れれば関所破りとされ、捕らえられて江戸に護送される。罪状が定まると、江戸から関所にもどされ、旅人への見せしめとして磔にされ遺骸をさらされるのが習わしになっていた1)

 『長英逃亡』では、三国峠を避けて、清水峠を越えて越後へ無事越えたとしている。その際、見送りに高橋景作もこの地に訪れ、高野長英と同行し、三国街道を横切って猿ヶ京関所の近くを通ってから別れたとしている。

もし高橋忠夫氏の推測が本当ならば、高橋景作は越後の浅貝、そして二居宿まで見送ったことになる。とすると猿ヶ京関所を避けて(破って)、越後までの面倒をみたと考えるざるをえない。吉村氏は、当時清水峠越えの道は廃道になっていたので、そこを通って越後に向かったと推測しているが、今回の推測は新しい重要な事実かもしれない。これはおそらく当時医家して名高い高橋景作の用意周到な、そして景作でしかなしえなかった命をかけた行動ではなかったのではないかと思われるのである。

 たまたまに 人に生まれて 如斯ばかり

  めでたき時に あふそ楽しき

高橋景作は晩年、篤い思いを込めてこの句をしるしたのではなかろうか。感動的な新しい発見なのかもしれない。

脚注 高橋氏のお手紙には「二井」と「二居」のふたつの地名が書かれているが、正しくは「二居」と思われる。高橋景作は音読みで間違えたものと推察される。山形県に「二井峠」が存在するが、今回の和歌・俳句からは関係がないと考える。

 なお『異本病草紙−その26』の図7の説明で高橋英二氏と記載したが、正しくは高橋

忠夫氏である。お詫びして訂正させていただく。

文献

1)吉村昭;長英逃亡 上,新潮文庫

 新潮社(東京)、2003

2)佐藤昌介;高野長英,岩波新書,岩波

 書店(東京),1997

3)高橋景作;高橋景作日記,編集 金井幸佐久,発行 高橋忠夫,高橋景作刊行会,

 朝日印刷(前橋市),1995