群馬県の医師(1)
 異本病草紙考−その30
       高崎市医師会 服部 瑛

はじめに

 『異本病草紙』に関与して以来、私は群馬県に関する医史にも興味を持つようになった。そして、私個人が身近に知り得た群馬県の医史の実際をこれまで『異本病草紙考』でいくつか述べた。
いままで数多くの医師が、群馬県の各地域に根ざして誠実かつ熱心に医療を実践してきたと思われる。しかしながら、後世に残すべき医師の資料が判然としない。ふと、松島榮治先生(群馬県の歴史学の重鎮)から贈呈された『新世紀ぐんま郷土史辞典』(企画編集:(財)群馬地域文化振興会、発行所:群馬県文化事業振興会、発行2003年1月31日)を思い起こした。約1600項目もの群馬県の郷土史関係項目を収録したものである。この選択基準は定かではないが、群馬県における本県出身者及び本県と深く関わった歴史上の重要な人物が取り上げられ、その中には当然医師もいる。今回は、そのあたりから、群馬県で活躍した医師にせまってみようと思う。

『ぐんま県郷土史辞典』にみられた医師

 この辞典に掲載されている医師、あるいは
医療関係者は下記のごとくである。冗長かもしれないが、あえてその文面をそのまま記載した。おそらくこうした機会が無ければ、知る由のない情報かもしれないし、私のような者が意見を差し挟めない世界だからである。以下、あいうえお順に記載させていただく。

荒木寅三郎(あらき・とらさぶろう)
 1866(慶応2)〜1942(昭和17)。安中市板鼻の医師荒木保爾とすまの子として生まれ、板鼻小学校を卒業後、東京へ遊学。1887(明治20)年5月東京大学別課医学科を卒業。いったんは板鼻に帰郷、医業を継いだが再び上京。郷里有志による財政援助でドイツ・ストラスブルグ大学へ留学。ホッペンザイル教授のもとで医化学を研究。学位を得て1895(明治28)年帰国。翌年第三高等学校教授。1897(明治30)年東京帝国大学で医学博士号をとり、1899(明治32)年京都帝大医科大、1903(明治36)年医科大学長、1915(大正4)年京都帝大総長。1929(昭和4)年枢密顧問官。文昭院殿仁樹護国至孝大居士は故郷板鼻の荒木家墓地(立的塚)に眠り、1966(昭和41)年2月12日、安中市史跡となっている。生前の学校鳳岡と号し、詩文を好み、書もよくし、故郷の学校等に荒木寅の扁額を送った。(森田秀策)

飯島雪斎(いいじま・せっさい)
 1802(享和2)〜1864(元治元)。群馬町足門の生まれ。1820(文政3)年18歳のとき江戸に遊学、ついで京都、大阪へ上り西洋医学を学ぶ。更に、長崎に出てシーボルトに学び、西洋医学の研究を重ね、32歳で帰郷した。この長崎遊学のとき求めたという望遠鏡や尺時計が飯島家に保存されている。雪斎は医業の傍ら、私塾を開き青少年の指導に当たった。1864年(元治元)年64歳で逝去。門弟建立の顕彰碑は、飯島家の南薬師堂境内にある。(高橋喜平太)

伊古田純道(いこだ・じゅんどう)
 1802(享和2)〜1886(明治19)。わが国最初の帝王切開手術に成功した医師。武州秩父郡伊古田村(秩父市)の名主の家に生まれ、比企郡番匠村の小室元兆に蘭方医術を学び、更に江戸、長崎で学を深め、大宮郷(秩父市)で開業した。当時は漢方医術が主流で蘭方医学は妖術扱いされ、患者も少なかった。1852(嘉永5)年吾野村、常七の妻分娩に際して捷径術と呼ばれていた帝王切開手術を試み成功した。純道は「母子が死地を脱したのは西医の賜物で蘭方医術は妖術ではなく、人命を救う優れた医術である」と述べている(『帝王切開術実記』)。1871(明治4)年純道は岩鼻県衛生課員種痘掛であったことや武井三岳と交友のあった縁で藤岡6丁目に移住し開業した。子孫は中島医院として今も続いている。(浦部正視)

井上正香(いにうえ・まさか)
 1819(文政2)〜1900(明治33)。前橋西大室町生まれの医・国学者。水戸藩医森庸軒、佐藤信夫丸に医術を学ぶ傍ら書を市川米庵、和歌を橘守部に学ぶ。天保年間郷里に帰り医者を開業、私塾も開き近隣の子弟を指導した。 
38歳で再び上京、権田直助に医学修行しあわせて平田篤胤について国学を学ぶ。その後郷里で医業に復帰した。1869(明治2)年、権田直助が江戸に出仕するのに際し正香が代わって教授するため京にのぼった。その後権田が大学東校の教頭に就く際招かれて同校で教鞭をとることになった。1871(明治4)年前橋藩校設立に際し国学を担当したが、廃藩で退任した。その後貫前神社の権宮司、1876(明治9)年からは大和石上・竜田神宮の禰宜をつとめた。1880(明治13)年からは郷里に帰り医業を開き、国語指導にも尽くした。1889(明治22)年82歳で没した。(井上唯雄)

今村了庵(いまむら・りょうあん)
1813(文化10)〜1890(明治23)。漢方医として著名。名は亮、伊勢崎藩医長順の第3子。長兄兼外が早く没したので家を継ぐ。多紀安叔・花岡準平に医術を、佐藤一斎・寺門静軒に儒学を学ぶ。1858(安政5)年江戸で開業、のち伊勢崎藩医となり、1869(明治2)年大学皇漢医道御用掛。1879(明治12)年は明宮(大正天皇)の侍医となり、1882(明治15)年には東大医学部の講師となり和漢医史を講義した。洋方医学採用の新政府の方針に対抗、浅田宗伯とともに漢方医術界の双璧と称され、皇漢医学を守るため先頭に立って奮闘した。著書は『医事啓源』『脚気新論』のほか数10種。漢詩文にも長じ『杏林余興』の著がある。
(菊池誠一)

大久保適斎(おおくぼ・てきさい)
 1840(天保11)〜1911(明治44)。群馬県医学校の初代校長。江戸小石川の幕臣星野家に生まれる。昌平坂学問所に学び、医学を塩原春斎の門人となって終業した。さらに東京大病院兼医学校(東大医学部)に入学、その後米人ドクトル・ヤンハンスに解剖の実習を学んだ。1870(明治3)年小菅県立病院副院長となり、印幡病院長をへて、1873(明治6)年群馬県に来住、1876(明治9)年県医学校設立に当たり初代校長となった。1879年には県監獄医長に就任、1886年退官して新町に開業し、かたわら盲人に鍼の施術を教えた。1894(明治27)年多数の医師の見守る中、県内でも最初の人体解剖を行った。実験人体を提供した山崎栄造の墓石には「我国鍼治のため最初のもの」と刻まれている。子孫は新町で医院を継承している。(浦部正視)

大館謙三郎(おおだち・けんざぶろう)
 1824(文政7)年〜1875(明治8)。江戸時代後期、上田中村(新田町上田中)で代々医業を営む家に生まれる。昌平校(現在の東京大学)に学び、古賀伺庵に師事した秀才であった。大館霞城と号し、文、詩、書の三芸に秀で、『西毛紀行』を著すなどの文筆活動を行った。1849(嘉永2)年には兄怒庵とともに上田中村に医院を開業する。また、幕末には新田満次郎を擁立して新田勤王党を組織し、倒幕運動に従事する。1870(明治3)年には新田郡他213カ村の郷長(地域の犯罪の取りしまりや民事の訴訟問題にいたるまで、民事のすべてに関与する権限を与えられた役職)に任命された。1875(明治8)年に逝去する。(小宮俊久)

大塚豊美(おおづか・とよみ)
 1893(明治26)〜?。医学者。黒保根村八木原に生まれ、父は万平という。夫人須磨子は星野トの実妹である。医学博士で歯科医学に新しい時代を創成した人物である。1913(大正2)年東京歯科医学校を卒業、静岡県に医院を開業したが山梨県に移る。弱冠30歳で山梨県歯科医師会長となる。その後欧州に留学研究を積む。帰国後義歯研究所を設立し、低価格かつ外見優美なスープラメタルという白金合金を開発した。優れた歯科材料は全国的に普及して歯科診療に不可欠な存在となった。国際歯科医院を開業するとともに日本歯研工業株式会社を経営する実業家であった。また、国鉄嘱託医、東京歯科医師学会常任理事の要職にあって歯学界の発展に貢献した。(川上三男)

奥山昌庵(おくやま・しょうあん)
 江戸時代後期の漢方医。初代昌庵は遠州見付宿(静岡県)の人で1802(享和2)年6月桐生新町に来て、同町三丁目の玉上与七の店を借りて医を開業した。2年後には玉上吉兵衛の屋敷を譲り受けて移り、以後ここで専ら医を業として暮らした。没年は1821(文政4)年12月15日で妙音寺に葬られた。2代目昌庵は名は慎。道栄、寄享または水哉と称した。父の後を継いで医を業とした漢方医である。当時桐生地方第一の名医としての評判が高く、また義侠心に富んだ人であったという。渡辺崋山の『毛武遊記』にその人柄の一端が記されている。また漢詩や書も学ぶ文雅の人であった。佐羽淡斎編集の桐生同郷人の詩集『桐郷風雅集』は昌庵の校合であり、昌庵の作品は同集及び『五山堂詩話』にのせられている。1835(天保6)年没。(大里仁一)

桐渕貞山(きりぶち・ていざん)
 1672(寛文12)〜1749(寛延2)。医師・俳諧師。越後国高田藩主徳川忠輝の家臣岡田義考の子で名は利兵衛。高田藩が没落したので、甘楽郡国峯城主の家臣であった祖父桐渕利久の家に移住し、のち桐渕家の養子となる。家業(医者)を営むかたわら、俳諧を貞門派の松永尺山に学び、49歳のとき家業を息子の幸助に譲り藤岡へ移り近隣の門人に俳諧を教えた。1726(享保11)年には江戸へ出て門弟の指導に当たり、門下生は3千人に及んだという。1745(延享2)年俳諧を学ぶ者の必読書と言われた『俳諧手挑灯』を刊行した。藤岡の住居は鷹匠町高山医院のある所で、孫の安兵衛は視力に障害を持ちながら『群書類従』を著した国学者塙保己一の幼少時に診療した眼科の名医である。墓は藤岡7丁目の龍源寺にある。(浦部正視)
               (つづく)