ブル−ノ・タウトと田中病院 U
−異本病草紙考察 その18−

        高崎市医師会 服部 瑛

 昭和9年9月26日(木)のブル−ノ・タ
ウトの日記1)を繙くと、冒頭に「昨晩から今
晩にかけての一夜は、私達が日本で出會った
最も異常な経験であった。」と記載されてお
り、「床に入ろうとして、めりめりという物
凄い音を聞いた、山下の橋が流されたのだ。
ほんの1時間前に、水原氏はこの橋を渡って
高崎へ歸ったのである。」とあった。まさに
その日のことが詳細に書かれている。
 水原氏の話を続けよう。

 洗心亭の玄関を出ると自然石をならべた数
段の石段があって先にも記す竹藪の傍らを過
ぎて寺の石段になる。
そこで私は碓氷川の向こう岸に数箇の電灯が
点滅しているのを見た。何か叫んでいるが、
よくわからない、急いで橋を渡ると大きな材
木、樹木などが川を塞止めるように橋桁に当
って揺れる。危く橋の上にころびそうになり
転げ落ちたら大変だから這うようにして進み
、やっと渡り終るとそこにいた村人が「バカ
野郎、危ぶねえから、渡るなと言っているの
にわからねえのか−−−−−。」とどなられ
た。
 そこそこに謝って道に出たが水はすでに田
畑を沈めてしまっている。群馬八幡の駅まで
行って汽車で帰るより方法はないと思って進
むが道は水になっていて、傘をとじてそれを
突いて歩けるところを探す、やっと少し高く
なっている駅に着いて待合室に入ると駅員が
「列車はありませんよ、線路に水が上がって
しまった」という。歩いて帰るほかに方法は
ない。再び傘を杖にして中山道の道に上がっ
たが、雨はいよいよ強く蓑笠をつけた村人た
ちの明かりを背にして雷が鳴っては、稲妻が
光るのを頼りに、落雷は恐ろしいから傘に手
拭いをしばって引きずりながら歩く。高崎市
に烏川を渡る君ヶ代橋にようやくたどり着い
て停電になったらしく、どこにも光は見えな
いが、時折り稲妻の光りで見える川の水が橋
だけ残して一面の濁流となって流れている家
屋の屋根を見せる。屋根に貼りついたような
人の姿も見えた。
 夜の12時過ぎになっていたから洗心亭か
ら柳川町にあった父の家まで3時間以上であ
った。すっかり裸になって濡れた衣服をぬい
で風呂に入り寝床にもぐりこんで眠った。身
心ともに疲れ切っていたので、半鐘が鳴って
いるのは聞いたように思うが、朝までぐっす
り眠ってしまった。
 起こされて見ると昨日の雨は嘘のようにす
っかり青い空で強い秋の日が照らしている。
父が洗心亭は行かれなくなった橋は流されて
しまったようだという。半鐘が鳴らされたの
は下の町一帯は堤防が切れて歌川町、常盤町
はすべて浸水しているという。行って見ると
私が通っていた中央小学校は水の中に孤立し
ていて舟で先生が往き来している。もちろん
学校は休んでいる。
 私は洗心亭はどうなっているだろう、朝食
もできなかったろう、ともかくパンや野菜、
果物を買って持って行くことにした。幸いに
昨夜私が渡って来た君ヶ代橋までは行かれな
いが、その下流の聖石橋は渡れるとわかった
ので、そこから乗附の丘に登って山伝いに少
林山に行くことはできる。用意して出たが聖
石橋は無事だが、橋を渡ると低地はまだ道路
も水没していた、膝までだったから靴もぬい
でリュックサックに入れて渡る。片岡小学校
も水没して舟がいくつもつないである。歩兵
15聨隊から兵隊が出て救出にあたったが兵
士7人が流されて死んだということで、まだ
学校に兵隊が集まっていた。
 山の上に登って眺めると烏川と碓氷川の合
流する一帯は山の裾から市街地まで、満々と
濁流が渦巻いて壮観だった。
 少林山の丘の上の道に着いていつもタウト
に従って散歩している道を降りて洗心亭に着
く。エリカ夫人が驚いてどうやって来たのか
という。しかしタウトは東京で鉄道省の観光
局主催の会合に約束していたので出席の為に
住職の広瀬大蟲和向と共に行ったということ
だった。鉄橋を渡って幸いに自動車を見つけ
、上京した転末が日記に記されている。
 私が苦心して山上の路を洗心亭に着いたの
は喜ばれたけれども、あまり役に立たず、失
敗だったのはそのころ私は煙草を吸わないか
らそれを買って行くことに気がつかず、何よ
りも先にそれを聞かれた。毎日、安子さんが
それを持って朝食の支度に通っていたのだが
、水没してしまった安子さんの家は大変だっ
たし、橋も流されてしまったのだから煙草ど
ころではない。寺に近くそれを売っていると
ころはなかった。
 煙草だけの理由ではあるまいが孤立してし
まった洗心亭にエリカ一人で居ても何もでき
ないから私も東京へ行くということになり、
それでは私も共に今度は鉄橋を渡って行くこ
とにしようということになる。洋服も靴も私
のリュックサックに入れて持ち汚してもよい
軽装で足は草履を紐でしばって高崎に電話、
鉄橋を渡ったところまでタクシ−が来て待っ
ている約束をして出発した。
 たしかに鉄橋は無事だったが着いて見ると
、それが渡れるだろうか、むずかしい。まだ
橋のすぐ下まで濁流が波を打って流れ、次々
に流木が流れて来て恐ろしい。
「ダイジョブ」とエリカが言うが滑ったら大
変だが手をつかまって枕木を渡るのはむずか
しい。列車はまだ通れないのだから急ぐ必要
はないが板を渡して人も通れるようになって
いるのが、落ちてしまったのか、その板がつ
ながって渡してはない。もちろん私は平気で
渡れるが、エリカが渡るのはむずかしい。
 ようやく下の水が見えないところまで、鉄
橋はずいぶん長いものだと思って、ほんとう
に冷汗だった。タクシ−で井上工業に着き、
二階の日本間ですっかり用意し、草履や着替
えのものは私が持って行くこととし、ようや
く煙草も買えてゆっくり一服、高崎駅まで見
送って私もほっとした。
 タウト夫妻はそのまま東京に居て私も上京
、銀座のミラテスで進行中だった第一回のタ
ウト作品展を日本橋の丸善で開催する打ち合
わせ、その為のタウトの挨拶文も受け取った
。 10月になって流失した橋も仮に渡れる
ものができてからタウト夫妻は洗心亭に帰り
災害見舞の金を贈ったのでバケツを被災者に
配り、タウトの名を記したものが長く使われ
ていた。
 水の引いた後の碓氷川は様相が大きく変わ
ってこんな大きな石がと驚くようなものが重
なり、改めて先夜の水の恐ろしさを思った、
村人の叫びをそれと知らず渡ってしまったが
私を最後にあの橋を渡った者はなかった。そ
して間もなく流失したのである。もちろんそ
れが私の渡っている時のことだったら私の命
はなかった。あの濁流を泳ぐことなど、私に
力はない。
 あの夜、高崎に帰って行かれた田中兵作氏
は洗心亭に御見舞の品がとどけられた。あの
豪雨の中を帰られたのだから特別な思いがあ
ったろう。
 ブル−ノ・タウトが日本を離れてトルコへ
去る時、私はこれを田中さんへとどけて、滞
日中はいろいろお世話になりましたとお礼を
言ってくれと小さな包みを渡された。タウト
のデザインしたペ−パ−ナイフだったと思わ
れる。高崎を去る時、そういう挨拶を残して
いった人は他にはない。

 この水原氏の文章から、私たちはブル−ノ
・タウトと田中兵作先生との関係を朧げなが
ら理解できるように思われる。
 田中兵作先生は、ドイツなどへの留学後(
図)、高崎市で耳鼻咽喉科を開業された。大
変な勉強家だったことを、田中太先生からお
聞きした。惜しむらくは、精読され、赤ペン
で克明に書き込まれたドイツ語の耳鼻科全書
の引き取り手はなかったらしい。最近処分さ
れたそうな。
 多くの先人の業績は、大切に残さなければ
ならない。田中兵作先生のブル−ノ・タウト
への援助もその一つであろう。



1)ブル−ノ・タウト: 日記 ,群馬文学全集,
 第20巻, 伊藤信吉監修, 群馬県立歴史博物
 館発行,2003.3