今こそ「皮膚科医学史」の集積・検証を

 日本皮膚科学会が発足してまもなく100年になろうとしている。

 平成11年の慈恵医大の新村眞人会頭の第98回日本皮膚科学会
総会(東京)では、「皮膚科学の曙」という題名で、医学史がご専門の
酒井シズ先生(順天堂大教授)のご講演があったことは記憶に新しい。

 このご講演に対して豊中市の長門谷洋治先生は、本誌の「声の欄」に
「皮膚医学史への視点」と題する投稿をされ1)、そうしたご講演が
画期的なものであるという印象を述べられた。そして、皮膚科学史の
重要性とさらなる展開を期待すると結ばれておられる。

 私は一昨年偶然、私の後輩から提供された「異本病草紙」を調べる
機会が持てた。そしてそれらの絵図から皮膚科と密接に関係する
多くの情報を得ることができた2)。目で「見える」という皮膚科に
与えられた宿命は、平安時代の遠い昔、ある意味で驚きを持って
見られたやもしれぬ皮膚病と同じ世界を共有しているようにも思われる。
他の内科的疾患などよりも、皮膚病に驚きを持った民衆を背景にして、
当時の絵師にとっては描きやすいドラマチックな題材でもあったのであろうと
推察される。

 明治時代のエンサイクロペディアと言われている「古事類苑」を繙くと、
その疾病には皮膚科的記述が多い。例えば、「治承三年(西暦1179年)
六月二三日、近日天下上下病惱號之錢病」という記載が見られる。
歴史学者の間では、この「錢病」はその当時新しい貨幣への執着として
考えられていると、群馬県歴史博物館長は話しておられた。しかし私は、
錢に似た臨床を示す「ぜにたむし」のような感染する皮膚疾患も考慮しなければ
ならないと思い、そのことをお話した。その仮説が正しいならば、皮膚病は、
「見える」という特殊性から遠い昔より必然的に注目されてきた疾患のように
考えられるのである。

 そして、近代になって皮膚科学が学問として定着する時代になっても、
皮膚病を客観視する手段としての「石版画」や「ムラ−ジュ」はきわめて
重要な産物となった。現在では、カメラで皮膚病の臨床は手軽に
記録・保存できる。これからはパソコンなどの媒体がさらに合理的にかつ
簡便に利用されてくるのであろう。

 しかしながら今わたしたちは、「病草紙」のような絵巻物あるいは
「ムラ−ジュ」といった過去の皮膚科学の臨床教育の一端をを担った
資料をしっかりと保存・集積し、さらにそれらを検証するする義務も生じて
きているのではないだろうか。

 若い皮膚科医と話していると、意外にも医学史に興味を持っている人達が
多いことを最近知ることができた。そうした医学史に興味を持った皮膚科医が
一定以上存在するのであれば、「皮膚科医学史研究会」などの情報交換の
場があってもよいように思われる。

 いずれにしても、「皮膚病診療」は皮膚科医学史までもカバ−出来得る数少ない
皮膚科専門誌と思われる。そして、皮膚科100年を迎えかえようとしている現在、
まさに遠い昔からの皮膚科の多くのすばらしい歴史を、そうした場で集積・検証する
時期に来ているように、私には思われてならない。それは、山本達雄先生が
本誌12月号(1999年)のEDITORIALで述べられた3)「温故知新」という世界にも
通じているように思われるのである。

         文献

1)長門谷洋治:皮膚病診療,21:559,1999
2)荻野篤彦, 服部 瑛:皮膚病診療,21:751,1999
3)山本達雄:皮膚病診療,21:1103,1999
(高崎市・服部 瑛)