《トルコの休日》  ちょっとブレークして 《みづち》 その3
     
       【創作オペラ《みづち》前橋公演の合唱に参加しました】 
 
【衣装】
 昨年・今春に参加させて頂いたオペレッタ《こうもり》の場合は、ヨーロッパのお話しですから衣装は洋服です。それも「殿下」主催の夜会に出席するのですから、男の方は自前の礼服を着用するように言われました。でも、女性は裾の長いお姫様ドレス、結婚式のお呼ばれの服では到底間に合いません。女性ソリストの方々が持ち寄ってくださった舞台用のロングドレスとパニエを拝借し、私は生まれて初めてふわふわのロングドレスを身にまといました。
 
 舞台は1000年前の水不足に喘ぐ日本の農村です。和服に慣れるために、立ち稽古では各自浴衣を着るようにと言われました。ずっと以前に母が縫っておいてくれたものがあったので、慌てないで済みました。訪問着を着るチャンスは時々ありますが、浴衣を着るのは何十年ぶりのことでしょうか。娘は中学生の頃に着たもので、まだ肩上げがしたままでした。
私たちは段々畑のある村に住み、農作業をする人びとです。練習は浴衣ですが実際には何を着るのでしょうか。1000年前のスーパー・カジュアル・ワーキングウエア(早く言えば野良着)はどんなものだったのでしょうか。
今年は源氏物語が完成して丁度1000年目にあたるということですが、当時はどのようなものを着ていたのでしょうか。
セレブの方々の衣服は源氏物語絵巻その他で事細かに記録されているので誰もが承知しています。つまり、メンズファッションは衣冠束帯で、レデスファッションのフォーマルウエアはあの有名な十二単、今で言う重ね着ルックで、溜息が出るような素晴らしいものです。でも、庶民の衣服のことはあまり記載がありません。町民や農民の衣服は文献的には重視されていなかったらしいです。どうやら袖の短い着物の上に襞スカートのようなものを重ねたていたらしいです。
どうなるのかと少し心配していましたが、オペラ協会付きの衣装係の方がほぼ合唱団全員(男・女、子供)の衣装を用意して下さったのです。女性のスーパー・カジュアル・ワーキングウエアは地味な和服で、袂は短く筒袖のような形に直してきて下さいと言われました。帯は半幅のものを小さく結ぶか、一部の人は前掛けで押さえるスタイルでした。襞スカートのようなものはありませんでした。当時の男性用ワーキングウエアは、文献的には膝下がきゅっと締まったサブリナパンツあるいはハーレムパンツ風のもので、上着は筒袖だったようです。ほとんどの男性の皆さんのパンツ部分は、近頃流行のスパッツをつけていたようです。着物は後ろ中央で裾を引っ張り上げて帯に挟み、尻ぱしょりスタイルでした。村長さまは袴をつけられました。全員足袋は無し、履き物はオペラ協会で準備して下さった藁草履(大半はビニール紐で作ったものでした)をはきました。慣れないので始め何日かは鼻緒のあたる部分が痛くて困りました(水虫はうつらないかと心配でした)。
 
【着付け】
 今の時代、和服は特別のセレモニー用でフォーマル。一般の人が普段着として和服を着ることはめったにありません。その為か若い方の中には、立ち稽古で浴衣を着る時になると、洋服のように左前に合わせてしまうというハプニングもありました。
最終的に、通し稽古、ゲネプロ(リハーサル)と本番の3日間は市内の「きもの学院」の先生方が6,7人来て私たち合唱団全員(男、女、子供。勿論別々の部屋です)の着付けをして下さったので助かりました。女声合唱の楽屋では3,4人の先生が手分けしての着付けでした。私たちは着るもの全部を風呂敷などに纏めて持ち、着付けをして下さる先生の前に行列を作り待ちました。
着付けをして下さる方はその時々で違います。最初(通し稽古)の時に着付けをして下さった方は、「あなたちょっと細いからタオルで補正した方が良いわね」と、胴にタオルを2枚巻いて下さいました。次のゲネプロ(リハーサル)の時に着せて下さった方は、「1枚で充分」と言われ、本番の時の方はタオルは必要ないと使いませんでした。それぞれの人の感じ方って面白いものですね。タオルを巻かないとかなり涼しく、助かりました。通し稽古とゲネプロの時は全員結構帯を胸高に締めてくださったのですが、本番当日は「着物学院」の校長が楽屋へ回ってきて、「もっと野暮ったく下の方へ締めたほうがよい」とのことになり、ウエストに近いところまで下げられました。着丈は膝下10センチと短く着ました(農作業に便利)。
さすがに着物のプロの着付けです、3日間ともほぼ半日近くの間、踊ったり走ったりしても着崩れすることなく幕を迎えることができました。
 

                       ** ** ** つづく ** ** **