【トルコの休日】
          12)エフェソス(その4) 《剣闘士の運命》
 
エフェソス都市遺跡内にある大円形劇場跡へ来た。
BC3世紀頃に、ピオン山の斜面を利用して作られ、その後ローマ時代に増築をして大きくしたために、収容人員24,000人の大劇場にふくれあがった。下の方の座席はゆったりしているが、建て増しした上方はかなりせせこましく窮屈そうだ。写真ではスケールの大きさが分かりにくいと思うが、とても広いのだ。 円の直径は158m、高さは60mの規模と案内書には書いてある。すり鉢型のこの劇場の音響効果が抜群で、最近でも夏になると音楽会が行われることもあるという。音楽を聞くチャンスが無くて残念だった。
 
エフェソスは本来港町で貿易も盛んだったらしい。港からこの大劇場へと通じるアルカデイアン大通りは、夜間照明付きだったと言うから、遠方から船で港へ着き、賑やかに劇場へと歩を進めた人びとも多かったのだろう。当時は海岸が直ぐ近くまで来ていたそうだ。この他に、会議などに使われた屋根付きの小円形劇場も残っている(現在屋根はない)。
立派な遺跡の数々を目の当たりにし、地中海沿岸の諸外国を始め、ローマの属州から沢山の人びとが集ってきたことに思いを馳せ、当時のエフェソスは、まさに大都会だったのだろうと感慨深く思った。
 
 
  色もよくないし、ピンぼけの写真で失礼します。小さく見えますが、遠くにいる人は子供では
  ありません。 手前に集まっているグループの人びとは仲間たちです。
 
当時、この広い円形劇場で剣闘士が剣を交わしたり、時には猛獣と剣闘士との一騎打ち、あるいは処刑のようなことも行われていたのだ。人びとはそれを見ようとこぞって集まってきたために建て増しをして観覧席を増やしたのだろう。こうした行事は、一種のレクリエーションだったのに違いない。右側に見える石造りの柵のような部分は、猛獣の攻撃から身をかわすためのものだったそうだ。しかし、身を隠す(攻撃を避ける)という行為は観衆にはあまり歓迎されず、勇ましく戦うことが要求されたらしい。
戦う相手が人であれ、猛獣であれ、戦いの終われば、当然勝者は栄誉を受けた。敗者はどのような処遇を受けたのだろう。
 
フラットさんの説明はこうだった。
『みなさま。試合が終わったとき、勝った人は盛大な拍手を受けました。ケガをしたり、負けた剣闘士はどうなったと思いますか? 試合が終わって、偉い人(その場にいた王侯貴族?)が立ち上がると観客は皆騒ぎ立てて彼の手に注目しました。彼が上げた手の親指を下へ向けると、敗者は有無を言わせず断首されたのです。怖いですねえ』 フラットさんの話は続く。『けれど、親指を上へ向けたとき、そうです、命を助けることを意味しました。親指が上向きであれ下向きであれ、負けは不名誉でした』
 
この話を聞いて、直ぐに暴君として悪名高いローマ皇帝ネロを思い浮かべた。ネロ(AD37ーAD68年)はローマ皇帝として地中海沿岸を支配した人である。剣闘士の戦いはネロの時代にもっとも頻繁に行われ、多数の剣闘士や動物が死に至ったと言う。彼が皇帝として采配を振るった年代は、エフェソスが繁栄していた時とほぼ同じである。ネロがエフェソスに来たか否かは別としても、ローマでのさまざまな行事は地方でも奨励されたに違いない。フラットさんの話は充分納得できるものだ。
 
さらにフラットさんは私たちにこう質問した。
『じゃあ、こういう風に親指を横向きにしたとき、敗者はどう扱われたと思いますか?』 と皆に横向けにした親指を示して見せた。
「ええ、どうするのかしら?」 と互いに顔を見合わせた。
『横向きの親指の合図は、殺しても生かしてもどっちでも良いよ、皆の好きにしなさい、という意味だったのです』。皆が感心して真面目に頷くと、フラットさんは直ぐに笑いながら言った。
『ハ、ハ、ハ、ハ! これは私が今考えて言ったのです。昔は上向きか、下向きのどちらかしか無かったようです』
上を指すか下を指すか、親指の方向はその日に居合わせた偉い人のご機嫌次第だったらしい。
敗者の命運は親指の方向一つにかかっていたのだ。