【トルコの休日】 
           13)エフェソス(その5) まあ、これは・・・
 
私は、まだエフェソスを彷徨っている。
 
クレテス通りにあるケルスス図書館(前回報告)に間近い、当時のメインストリート・マーブル通に面して、コの字型にベンチのようなものが並んでいた。
よく見ると、ベンチには等間隔で穴が開いている。
ベンチに穴が開いている? まあ、これは・・・なにかしら?
 
これはAD1世紀頃に作られた「古代の公衆トイレ」なのだそうだ。
エフェソスを訪れた多くの人が唖然として眺める場所の一つである。このトイレは現代人の感覚からすると「すごい」、「不思議」、「何故」と思えるもので、感嘆符付きの言葉が幾つも頭に浮かんでくる。
 1)古代遺跡の中に「公衆トイレ」が発掘された
 2)メーンストリートに面して堂々と設置されている
 3)ベンチ部分は高価な大理石である  
 4)2000年も前なのに水洗式だ 
 5)個室ではなくて集団使用型?
 
 
何となく、腰をかけて見たい誘惑にかられる場所である。私たちの見学中にも、誰かが腰をかけて見たり、座って互いに写真を撮りあっている人が多かった。(念のため申し添えると、私は座りませんでした)写真の右上に見える建物は前回ご案内した「ケルスス図書館」である。

写真では、正面と側面に合計7人が座れるようになっているが、手前の方にも同様の穴あきベンチが鍵の手になってずらりと並び、かなり大勢の人が一度に使用できるようになっている。ちょっとしたドライブイン顔負けの大規模施設だった。
ベンチで取り囲むような形の中央部分(「すのこ」の部分)は当時池になっていたそうだ。池に浮かぶ睡蓮の花でも眺めていたのだろうか。もしそうだとすれば、なんとも優雅な公衆トイレである。
 
手前の座面の一部がはずされていて、下を覗くことが出来た。2メートル近く掘り下げられ、底面も側面も石造りだった。今は干上がっているが、当時は絶えず底を水が流れ、汚物を洗い流していたというのだから、正式の水洗トイレだったのだ。流れていったその先に下水処理施設があったかどうかは聞き漏らした。そして、トイレ掃除専門の人がいて、定期的に便座下へ入り込んでタワシで洗っていたと言うからかなり清潔志向が強かったのだろう。
 
眺めているといくつもの疑問が湧いてくる。
どのような理由で大人数が一斉に使える形式の公衆トイレをつくったのか。
なぜ目抜き通りの一等地なのか、さらに高級な大理石でトイレを作った目的はどこにあるのだろう。
 
きわめて文化の進んだローマ人(現在はトルコだが、当時、エフェソスはローマの属州だった)だから個人住宅には当然トイレの設備はあったに違いない。従って、街の住民がそのたびにわざわざここまで来ていたとは思えない。
エフェソスの目抜き通りに作られた理由を考えてみた。もし、図書館や大円形劇場などの公共施設にトイレが無かったとすれば、ここは絶対に必要である。この辺りには港や大浴場などもあったことだし、大勢の人が集まる街の中心部に作った理由も理解できる。現在だって劇場などでは幕間になるとトイレに行列ができるのだから、大規模公共施設の傍に大きなトイレがあればこの上なく重宝だっただろう。
 
でも・・・・・穴と穴の間にしきりが無い! そんな・・・・・? うそーっ! 
現代人の感覚では、この種の行為は極めて個人的な問題である。個室でもなく、しきりも無く、人目も憚らないなんて到底信じられない。
 
でももしかすると、衣服をカーテンの代わりに使ったのかもしれないと思った。
それなら当時、彼らはどのような衣服を着ていたのだろう。
取り急ぎ調べたところによると、スタイルは大別して2種類あったらしい。
一つは大きな布の中央から頭を出して、腰の辺りを紐あるいはベルトで締める形式の「トーガ(トガ)」あるいは「チュニック」と呼ばれるスタイル(貫頭衣とも言うらしい)だった。他は幅広の長い布をプリーツやドレープをたたみながら、肩から腰へかけてゆったりと巻き付ける方法だ。女性は頭から被って巻き付けたり、時にはワンショールダーにすることもあったようだ。布の端は肩や腰あたりでブローチや金細工などの装身具で留めたり、ベルトを使用したという、今で言う「ストール」の形式だ。色や丈は職業によっても異なっていたらしい。当時の衣服を想像するには、ベスビオ火山の噴火(AD79年)により失われた都市・ポンペイから発掘された壁画や、有名な肖像画《パン屋の夫婦》などの衣服を思い出すとよいかも知れない。
「ゆったり」、「ふんわり」形式の衣服なら充分に覆い隠すことが出来る。あのベンチに座って用を足すことは可能だ。でも女性の場合・・・・・考えることは少し憚られる。しかし、現代人の服装では、どう考えてもこの公衆トイレの利用は不可能だ思った。
 
それにしても、大勢で一斉に坐ることが何故必要だったのだろう。池の睡蓮の花を眺めながら他愛もないおしゃべりに耽ったのだろうか。当時は弁士のような人もいたと言うから、皆で長時間議論を交わしたり、会議をするために必要だったのだろうか。
いくら首をひねってみても、大勢が寄り集まって行う目的が想像できない。
考えれば考えるほど疑問が深まり、頭の中に『?』が満ちあふれてしまう。