【トルコの休日】 9)エフェソス(その1)ーああ、クレオパトラー
 
朝、専用バスでイズミールから西へと進路を取り、エフェソスへ向かった。
実を言うと、エフェソスは今回のツアーで一番立ち寄りたかったところである。
私が中学生になったばかりの頃、ロゼッタストーンの発見に纏わる本を読んだことがきっかけとなり、すっかり古代エジプト文化の虜になってしまった。紀元前何千年もの昔に、科学・天文学・建築学などあらゆる文化が華々しく開花・発展した国、あの神秘的な象形文字ヒエログリフが残されている国だ。その頃からエジプト旅行に憧れていたのだが、チャンスのないまま老人になってしまった。暑い夏のエジプトは年寄りには無理、と言われるので、完全にリタイアしたら夏以外の季節に出かけるしかないと、半ば諦めていた。
ところがある時、トルコ・エフェソスはエジプトの女王クレオパトラが訪れた地であることを知ったのだ(陸路?、海路?)。エジプトまで行かなくても彼女の足跡を辿ることが出来る、よかった。クレオパトラが歩を進めた(それとも「輿に乗って」)とされる石畳の道を私も歩いてみたい、と言うのが隠れた目的。トルコを恋人にきめておきながらエジプトに浮気したような、ちょっと後ろめたい気分だ。

               
 写真左:エフェソス都市遺跡の入場券。写真は「ケルスス図書館」跡。
      入場料:15トルコリラ(ここは結構高い)。実寸:10,6×7,9cmで、やや大判。
 写真右:入り口広場には遺跡見取り図と壊れた列柱や、まだ整理されていないかけらの数々が
      転がっていた。                                                 
     
エフェソスはエフェスとも呼ばれるが、今回のツアーでは「エフェソス」で統一されているので私もエフェソスと呼ぶ。この都市遺跡はベルガマの遺跡とともに、『エーゲ海の二つの薔薇』とも呼ばれ、見所が沢山ある。BC12,3世紀頃にギリシャから来たイオニア人が造った都市で、最盛期には周辺を含めて2,30万人が暮らしていたと言われるから当時のローマやアレキサンドリアに肩を並べる隆盛ぶりだったのだろう。
 
エフェソス遺跡の駐車場にはすでに沢山のバスや自家用車が並んでいた。
遺跡のチケット売り場のそばに広場があり、遺跡群の配置図を示した掲示板(トルコ語なので内容不明)があった。辺りには折れた柱やら人物像の腕、その他のかけらが草に埋もれてゴロゴロ、雑然と積み重なっていた。まだ充分発掘・復元作業が進んでいない模様だ。広大なので作業もままならないのだろう。
遺跡全体は小高い山の斜面を利用して広がっている。山腹中央に上から下へ走る「マーブル通り」(下の写真。当時は大理石が敷き詰められていたのでこの名称がある)があり、頂上側と麓側にそれぞれ遺跡入り口があった。私たちは頂上側の入り口から入って麓へと下っていった。
 
「マーブル通り」は白い石畳の、結構急な坂道だった。道の両側には折れたり欠けたりした列柱がずらりと並んでいた。坂道の遙か下方、中央に見える大きな白い建造物が、当時世界第3番目の規模を誇った「ケルスス図書館」(1位アレキサンドリア、2位は昨日訪れたベルガモン王国のもの)の入り口である。エフェソスの代表的な遺物の一つで、入場券のモチーフにもなっているだけあって、堂々とした立派なものだ。
この地を訪れたクレオパトラはアントニウスと手を取り合って「マーブル通り」を歩いたのだろうか、この坂道から「ケルスス図書館」の全貌を眺めたのだろうか。白い図書館はトルコ・ブルーの青空に映え息を飲むような美しさだったに違いない(今でも充分に美しく立派だ)。
 
 
この写真では見えないが、「ケルスス図書館」の前にも「クレテス通り」と呼ばれる道があり、「マーブル通り」にほぼ交差する形で走っている。この「クレテス通り」の一角は高級住宅地であったとされている。ある住宅の床を飾っていたモザイクの一部が、その場所にそのまま保存されていて、自由に触ったり撮影したりすることが出来た。往事の華やかさを充分に忍ばせる素晴らしいものだった(踏み込まないようにロープが張ってあった)。さらに別の屋敷では壁面を飾るフレスコ画が残っていたそうで、現在はエフェソス博物館で保存、展示されている(博物館にはモザイク床の一部もあった)。
 
「マーブル通り」はかなり道幅の広い立派な道で、この通りに面して大円形劇場がつくられていた。さらに、港から円形劇場へと通じる「アルカデアン通り」と呼ばれる道には夜間照明があったと言うのだから当時の隆盛ぶりをうかがわせる話である。
この他に、音楽堂、神殿、泉や大浴場などの跡、有名なヘラクレスの門、さらに数々の石像などが残されていて、見所の多い遺跡だった。一つひとつじっくり見ていたら一日では終わらないくらいだ。これほど大規模な遺跡なのに、世界遺産に登録されていないのは何故だろう、不思議だ。
 

ここは沢山の観光客グループがひしめいていた。言葉からすると中国人らしいグループ、真っ赤に日焼けした肌を剥き出しにして歩いている白人のグループなどがそれぞれ集まって坂道を登ったり下ったり、民族の大移動の観があった。見学者の中で、帽子、パラソル、長袖上着と紫外線防御に余念のない女性が目立ったのが日本人で、ショートパンツにノースリーブととにかく涼しさを追求している人びとは白色人種に多い傾向があった。サングラスはほとんどの人が使用していた。
昨日も今日も経験したことだが、遺跡周辺では樹木が少なく、晴天の日はまるで天日干し状態になるところが多かった。ガイドのフラットさん(赤いシャツの人)も気を利かせて、木陰を見つけるとそこへ皆を誘導して説明をしてくれた。この写真でしっかり貴重な陰を占拠している手前のグループが私の仲間たちである。
 
                       ーエフェソス(その2)へ続くー